怒涛の9連勤もなんとか終わり、久々に休日。
別に好きでやっている仕事ではあるが、体力的には休みも必要。
というわけでこの9連勤の前に北海道から母を呼び、
東京の弟と3人で草津に旅行に行ってきた。
草津か(+_+)
行きの列車は最近よく使う上野駅から。
久々に会う母親の姿はなんとなく祖母を彷彿とさせるものだった。
大きなかばんにスーツケース。
つくづく北海道は遠いな、という印象。
そのまま草津号に乗るとあとは家族の会話。
家族というものはやはり、凄い。
久々とか関係なく、何というか一つの空間が呼びもどされる。
近況もほどほどに3人ともカメラを取り出しパシャパシャ。
みんなハードなスケジュールの合間の休みだったが、
眠ることなく草津へ到着。
半袖では寒い気温。
でも、温泉地にとってはその寒さこそが絶妙なスパイスになる。
温泉自体ももちろん好きだけれど、家に隣りに温泉があればいいというものでもない。
温泉地。
そこに住む人々はもちろんそこが日常なわけで、
歩く人は学生もいればスーパーの帰り道の人もいる。
しかし、我々にとってはその風景が非日常。
日常から非日常に浸れる。
それこそが温泉地の醍醐味だとボクは思う。
各家族の日常を考えてみる。
母親はいろいろな過程を経て様々な問題をかかえて両親と生きている。
弟は20代から30代という垣根を超え、次なる問題に向かって生きている。
父親はサバイバル。
ボクはまあ、こんな感じだ。
少なくともボクが学生の頃思い描いた「幸せの定義」とは違うもので、
それは各家族ともども2000年より前に考えていたものとは違ったものだろう。
家族がいて、
もしかしたら子供や孫がいて、
帰れる家があって、
ご飯が食べれて、
そこは心休まるところで。
昔は
「贅沢は言わない最低限の幸せ」
であったはずのものが今は非常にハードルの高いものになっている。
実際、そこと現実のギャップに苦しみ、うつになる人、命を絶つ人もいる。
で、そんなことがテレビのニュースの話ではなく、身近に起きている。
ほんと身近に。
しかし、本当に「幸せ」がこの時代にないかと言われれば
幸せなんてものはいつもそこにある、もので、
そもそもの幸せの定義付けが間違っている人が多いのではなかろうか。
失って初めて気づく
なんてセリフは流行歌の戦略か?なんてことはなく、
実際その通りで、幸せなんて無数に広がっている。
問題はそこに自分の「幸せの定義」も持っていくかどうかだけなのだ。
ナンバーワンよりオンリーワン。
でも、ナンバーワンを目指してこそオンリーワンを手に入れられる。
しかし、そこを目指す以前にあなたがそもそもオンリーワンの幸せを持っていることに
大震災後日本人は気付かされたはずだ。
問題なのはその昔抱いていた「最低限の幸せ」から
今の時代に「幸せの定義」を移行できているのか。
そこに尽きる。
昔作った線路。
幸せへの線路。
でも、終点だけが楽しいわけじゃない。
途中駅だっておもしろいし、
乗り継いだ先の別の終点だって行ってみる価値はある。
他人だって同じ時代を生きている。
幸せに見える他人も「幸せの定義」に苦しんでいる人もいるし、
笑顔で楽しんでいる人もいる。
都会だって、田舎だって一日は24時間しかない。
忙しさなんて変わりはしない。
でも、そんな風に思っていても人はくじけるし、悩む。
神を呪ったりもする。
そこが人間の美しいところのひとつかもしれないと思ったりもするけれど、
病気でないとか、弱っていないということではなく、
肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態
なんてものを保つことはなかなか難しいものだ。
そんな場合は無数の人たちとの縁を頼るしかない。
縁の糸なんてものは目には見えないが、
引っ張ろうと思えばいつでもそこに登場する。
それは一つは家族。
家族には背伸びもする必要ないし、甘えられる。
その結果喧嘩もするし、すれ違いも起きる。
でも、それは家族の証。
同期。
友人。
先輩。
後輩。
上司。
先生。
ご近所さん。
ネット知り合い。
芸能人。
いろんなところに縁の糸は伸びている。
それは切ることもできるけど、
まずはあることに気づき、そして忘れないで欲しい。
で、ボクは常にその糸を毎日手繰り寄せて生きている。
だから、幸せだとこの時代でもいうことができるし、
一緒にいる時は窮屈に思えるけど
なんて思わずに大切な人たちと今を過ごしたい。
そんなことを考えて過ごした草津旅行でした。
温泉サイコーっ(>_<)









