その昔、筆者が若かりし頃、社会的な問題を扱う思想グループに属していたことがあった。

そこでは色々な分野に分かれて新しい時代の生き方を模索する形を取っており、中でも農業分野において言われていたのが今回のお題にも頂いた半農半Xである。

 

これは農業を生業としながらも、もう一方で真の生き甲斐に繋がる何かの副業、若しくは趣味を持てということである。

つまり半分のXの中身は自分で決めるわけである。

 

最近、新聞を読んでいたら、フェミニズム的な文脈から、女の子が地方の親の介護要員としてのみ期待されているとの旨の記事があった。

その記事では、女の子のみに親の介護を期待することについての絶望が綴られていたのだが、読んだ私はふとこう思った。

親の介護をする人は果たして本当に幸せにはなれないのかと。

 

そこで思い出したのが冒頭に掲げた半農半Xである。

これを半介護半Xと読み替えてみてはどうだろうと思ったわけである。

介護をしながら空いた時間で自分の好きなことをやって生き甲斐を確保する。

俳句でも短歌でもなんでもいい。

隙間時間を埋める趣味を持つのである。

最近は介護に関するサービスも充実してきているから、それらを上手く利用すれば、多少は浮いた時間も確保できるのではないだろうか。

でも仕事とか抱えていて介護との両立となると難しいのかな。

 

江戸時代に大田南畝という人がいる。

幕府に仕える武士だった人である。

ところが江戸時代というのは面白い時代で、一人の個人がその才能に応じて複数の名前を持って活躍する時代だった。

大田南畝もその一人で、本名の直次郎の時は裃を着けて登城し、さして面白くもない武士の務めを果たしていたのであろう。

 

当時の政治というのは基本的には前例踏襲主義であったろうから、支配階級の武士とはいえ、仕事そのものはそんなに面白くなかったはずである。

ましてや南畝は御家人という立場だったそうだから、武士としては下級に属す部類であるわけで仕事の上で創造性を発揮できる環境ではなかったはずである。

 

ところがこの南畝先生、一旦その職を離れるとやれ狂歌に随筆、漢詩に南画と趣味においては超一流のなんでもござれ。

そしてその各分野において違う名前を複数持ち、泰平の時代にアマチュア文化人として大活躍したわけである。

例えば本名以外に、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人、山手馬鹿人、など。

正に半農半Xならぬ半武士半Xの生き様である。

裃を脱いだ後の半Xにおいては、さぞや愉快な人生だったんだろうな。

 

現代に生きる私たちもこんな風に生きては行けないものか。

話は変わるが世の中というのは、さして面白くもない仕事に溢れている。

戦後、新しい憲法が出来て職業選択の自由が保障され、人は好きな仕事に就けることとなった。

そして世間を見れば、やりがいのある仕事を通しての自己実現こそが究極の生き方ともてはやされている。

若い人などはそんな風潮にすっかり騙されて、仕事を選びに選びまくり、天職を求めて転職を重ね訳の分からない方向へと邁進してしまっている。

 

その一方で、現実にはやりがいなどとは程遠い面白くない仕事が溢れており、それらの仕事はキラキラ輝く黄金の仕事にあぶれた人が仕方なく就く仕事となって今日まで至っている。

私の現在の仕事も中小企業の工場勤務なのだが、はっきり言ってしまえば、面白くもなんともない「単純作業」要員である。

工場は機械化されている。

しかしどれだけ機械が進化しても人の手で作業する部分というのは残ってくるわけで。

で、その作業というのは機械の動きに合わせて行われる作業だから基本的には同じことの繰り返しの単純作業になってくるわけである。

 

もちろん、機械や刃の状態を見極めるにはかなりの熟練はいるが、作業そのものはどんな人でも一週間もやれば覚えられるような簡単なものばかりである。

まあしかし悪いことばかりでもなくて、単純作業というのは考え事をするには持ってこいの仕事でもあるわけで。

例えば、このブログなどの原稿のネタなどはほとんど、仕事中に浮かんできたものばかりである。

厳密に言えば天から降りてくるものを書き写しているだけのこのブログなのであるが、その場合、考を練る時、単純作業との相性がバツグンなのである。

 

また仕事を離れて日々の暮らしを見てみても、人間の生活を成り立たせる作業の大半は面白くもなんともないものがほとんどである。

例えば洗濯に掃除に料理。

フェミニズムが蛇蝎の如く嫌う、退屈な家事の三巨頭である。

他には庭があれば草抜きとか剪定とか。

親が病気ならそこに介護の仕事も加わってくる。

まあ、どれも進んでやる気にならないような退屈な仕事ばかりではある。

しかし一方では誰かが必ずやらなければならない仕事でもある。

 

だから今、私たちは足下を見直してこのような退屈な仕事にこそ進んで回帰すべきではなかろうか。

そして江戸時代の大田南畝先生のように一方で退屈な仕事をこなしながら、もう一方でその退屈な仕事だけでは満たされない己の自己実現の欲求を趣味や副業を通じて達成すべきなのではなかろうか。

 

江戸時代には他にも、大日本史の注釈だったか、そのような本何十冊にも及ぶような大仕事を、生涯かけて仕事の合間合間の短い隙間時間だけを使って達成した人もいるそうで。

日本地図を完成させた伊能忠敬などは隠居してからの活躍で必ずしも半Xというわけではないが、人生の前半では半名主、そして人生の後半で半地図職人となったと見ることもできるだろう。

 

私自身の話に戻ると、工場での単純作業の退屈な仕事、最近はフィリピンの人なども働きに来ているが、この人達は日本人より熱心である。

つい最近もこの人達の代わりに仕事に入ることになった私なのだが、そこで課されている仕事のノルマにびっくりした。

製品にヤスリをかける仕事なのだが、なんと一時間に350個ペースというのである。

青春時代、本しか読んでなかったせいで実務能力皆無の私にはとても捌ききれない量と質の仕事である。

ところがフィリピンの人はこれをちゃんとこなしているようなのだ。

凄い。

 

それに比べると日本人の若者の劣化は私も含めて甚だしい。

ろくに仕事も出来ない癖に、面白くない仕事はやろうとせず、美味しい仕事だけ選り好みして、楽して稼ぐことし考えてない。

これはマスコミなども悪いのであろう。

あたかもキラキラと輝くような仕事の中で、自分は何一つ変わりもせず動きもせず、上から指示だけ出して上半身だけ使うホワイトカラー的な仕事ばかりがもてはやされている。

テレビを見れば、大した人生経験もないような若い人がコメンテーターとしてきれいな服を着て偉そうなことを言って高いギャラをもらっていたりする。

そしてそれが仕事を通じた自己実現の最高の形なのだと誤解されている。

 

禅の修行においては、日々の生活、道場の食事、掃除、洗濯などを充実させることが本当の悟りであり、道であると言われる。

しかし、若い雲水たちはそうは思わず、自分たちの生活から遠く離れたどこかにある未だ見ぬ桃源郷のようなところに「崇高な道」があるのだと勝手に思い込んでいる。

本当の道とはそんなところにあるのではなく、今ここ、私たちがこうして、当たり前に食事し、身の回りを清潔に保ち、人間らしく暮らしてい続けることにこそあるのだ。

そこを離れてどこか遠くに「道」があるのではない。

 

だから禅では「独座大雄峰」というそうで。

今ここに私がこうして座っている、ただそれだけのこと、それこそが正に奇跡的なことなのだと。

私たちは今一度、地味で面白くない仕事に帰るべきではなかろうか。

しかしそれは必ずしも絶望的なことではない。

上にも紹介してきたとおり、複数の名前を使い分けるようにする先人たちの智慧を借りれば、自分たちを活かす道はいくらでもある楽しい道となる可能性を秘めた生き方となるであろう。

 

日本人も戦後の高度経済成長を通して国民全体が金持ちになってしまったせいで、今、至るところにその弊害が出てきている。

俗に金持ちに三代なしというが、このままいけば日本人は国ごと丸々破滅するだけだろう。

すでにその兆候は、はっきりと出て来ていて、例えば私の工場での勤務で言えば海外から来た労働者のハングリーさと日本人の若者の退廃ぶりとは際立っている。

金持ちになったことによる猛毒がすでに私たち日本人には全身に回ってきているようなのである。

 

フェミニズムなんてのも、もうそろそろいい加減にした方がいいだろう。

既に女性に対するしがらみの大半は駆逐されつつある。

元々、女性に対する慎みを社会が求めていたのは、女性が産む性だからでもあるだろう。

酒なども女の人がガブガブ飲むのを良しとしないのは、妊娠した時に飲酒の悪癖があると胎児に悪影響を及ぼすからだろうし。

 

産む性である女性が子供の世話を中心となってした方がスムーズにいくのも一方における真実だろう。

例えば特攻隊で戦士が死に向かって飛び立つ時、「お母さん」と叫ぶ人はいても「お父さん」と叫んだ人は一人もいなかったというし。

やはり父と違って母は子にとって特別な存在なのである。

やれフェミニズムがどうなどと言っている場合ではない。

 

男が堕落しても女子教育がしっかりしていれば、国は立ち行くという。

江戸時代がまさにそうだったようである。

江戸や大阪の武士階級は早くの内に頽廃していたそうだが、武家の女子教育がしっかりしていたおかげで江戸三百年の隆盛は保たれたそうである。

そういう意味においては現代における女子教育の立て直しは喫緊の課題であろう。

 

分化・進化の果てに枝葉末節の繁栄を突き進み中心から外れて行く男を、持ち前の統一的原理で包み込む女。

ところが最近の悪しき男女平等主義は、そのような男のどうしようもなさを女がそのまま真似するような方向になってしまっている。

これでは進化ではなく堕落である。

こんな間違いは早々に正さねば日本はえらいことになってしまうだろう。

そもそも男と女は役割が違うのだ。

その違いを重ね合わせることで世の中は成り立ってゆくはずで。

しかしその違いがなくなって、全く同じになってしまったらそれこそ身の破滅である。

 

誠に困難な時代になったもんです。

しかし、諦める前にもうひと踏ん張りしてみようじゃないですか。

沈みゆく船に小さな浮き輪を一つ投げることくらいしかできない私たちですが。

が、小さな浮き輪でも一人じゃなく一万人が投げたら、一万個の浮き輪になります。

そのことを信じて精進致しましょうぞ。

それでは。

 

 

本日も最後まで読んで下さりありがとうございました。