他人様に苦言を言うことが難しくなってきている今日この頃。
果たしてそれでいいのか。
今日はそのことについて少し考えてみたい。
結論から言えば、私たち人間は苦言なしでやっていけるほど賢くはなっていないというのが偽らざる現実かと思う。
人間の脳や精神の構造は少なくともここ5000年くらいはほとんど変わってないように思う。
しかしあくまでも根本が変わらない人間をよそに、人間を取り巻く人工的な環境の方はどんどん変わってきている。
このことが人類全体にとって悲惨な結果をもたらしつつあるのは今や明白である。
例えば性欲なんかもそうで、男の性欲というのはここ何千年も同じままだが、それを取り巻く環境は随分と変わってきた。
最近ではかつてのような、男性側の少々羽目を外した行為というのは徐々に社会的に認められなくなっており、そのことで行き場を失った男の性欲は、ここに来て強くなってきた社会的抑圧のために変形し、変態的に現れるようになってきている。
世間のニュースなんかを見ているとそうなっているように思うのだが、どうだろう。
もちろん女性の側のかつてのような男の身勝手さに対する我慢が是正されたのは喜ばしいことだ。
しかしその一方で、古来変わらない男の性欲というのは完全に行き場を失ってしまっている。
なかなか世の中というのは難しいものだ。
進化したら進化したで新しい問題が出てくるのである。
話を元に戻すと。
カスハラのような明らかな迷惑行為が取り締まられるのは大変にいいことだ。
しかしその裏で本当に必要な苦言までもが過剰な取り締まりの対象となっていやしないか。
独裁政権が内側から崩壊するのは決まって、その批判者の口が全て塞がれてしまった時である。
つまり独裁が本当の意味で「完成」した時。
それが独裁が倒れる時なのである。
これは歴史を見れば明らかである。
政治に限らず、文芸運動のようなものでも、組織内部に主流派から距離を置く批判的な勢力が一掃された時に限って、組織は破滅への道をひた走る。
鯛は頭から腐る、つまり内側から腐ってくるのである。
唐の太宗皇帝だったか。
その太宗即位の記念日か、誕生日かだった時に、臣下が陛下の今一番気になっている嫌いな所を言いたい放題に言っていい日というのを作ったそうである。
太宗の君として足りないところ、政の拙いところなどを一日中、ただひたすら当の太宗の前で喋り続けるという一日。
その日になると太宗はそれを黙って聞いていたという。
言いも言いたり。
聞きも聞いたり。
この臣下にしてこの名君あり。
この名君あってこそこの臣下あり。
今時の会社の上司で部下が自分の悪口を言うのを黙って聞いていられる人が一体何人いるだろうか。
しかも聞くだけでなく、聞いた後、齢五十にして化す、六十にして化すという人となるとこれはもう日本全国を探しても数えるくらいしかいないであろう。
名君、唐の太宗にしてこの現実。
それを鑑みると、ましてや凡夫の我々風情が、苦言など自分には要らぬと浅はかに決め込んでなんで救われることがあるだろう。
しかし、苦言と言うのは言うのも聞くのも難しい。
よほど人間の出来た人ならともかく、私たちのような凡夫の場合、相手との間によほどの信頼関係がないと、そういうことはおいそれとは口に出来ない。
茶髪でチャラチャラした軽薄な若者に、「それ、なんか違うと思うっんスヨ-」などと言われて、はいそうですかと素直に頷ける人は人間としてかなり修練を積んだ相当なレベルの人に違いない。
普通はそんな目に遭ったら、オマエにだけは言われたくないんだよとへそを曲げるのが大抵の反応だろう。
しかし、そんな普通の人でも、この人に言われたら仕方ない、という人は一人くらいいるもので。
そういう人というのは人間的に信頼できるとか尊敬できるというような人がほとんどなんだと思う。
従って、そういう風に多くの人に思われている人というのは、上手に苦言を呈する技術を積極的に磨いていくべきかと思う。
しかしそこまで行ってない人の場合は苦言の技術を磨くのはまだ早い。
まずはその根本、人間を磨くことに集中すべきだろう。
儒教では、人に悟らせ、人の思考や意識を変えるのに、人を変えようとするのではなくまず自分を変えるべきと教える。
いわゆる修身、斉家、治国、平天下というやつである。
まず我が身を修めること。
それが出来たら家庭を修めること。
そしてその次が自分の住む地方を修めること。
最後は天下、国を治めること。
とそういう順番になっている。
つまり天下を治める基本はまず己の身を修めるところから始まるのである。
ただ注意が必要なのは、これを原理的に解釈して、己の身を完全完璧に修めないと次の段階に進めないと考える人が多いことである。
例えば安岡正篤先生の本なんかを読むと修身斉家治国平天下というのは必ずしもそうではなく、たとえ己の身一つを修めることに今は道半ばであっても同時進行的に家を修め地方を治める中で、それがまた己の身を修めることに繋がって行くという風に円環的に展開するものだということである。
つまり、己の身を修めようと常日頃真面目に努力しているひとなら、その余勢を買って家庭を修めたり、能力の如何、人格の如何にもよるが地方や国を治めることも十分に可となるということなわけで。
必ずしもガチガチに「完全無欠」である必要はないわけである。
少々なら抜けていても問題ないとのことである。
まあそもそも人間に「完全」は無理なのだが。
しかしとはいうものの口先だけの努力だけでは全くダメなわけで。
まあ口ではなんとでも言えるからね、人間というのは。
問題は実行が伴っているかどうか。
そこが分かれ目なんだろう。
最近の人、と言っても昔からそうなのだが人間というものは、口ばかりが先走って実行が伴わない人が多すぎるのが真の問題なのだ。
まあ筆者もその一人だが。
自戒を込めて。
そうやって人間を陶冶し、人から信頼される人になって初めて苦言を呈する役割も担えるようになるわけである。
しかし現代のクレーマーのような人を見るとこのような地道な人間形成をすっ飛ばして、自らは未熟なまま他者への批判だけを先鋭化させているように見える。
単なるカスハラと真摯な苦言との差は恐らくそこら辺にあるのだろう。
まあそれはともかくとして、基本的に人間的な信頼関係がないと相手の耳にもせっかくの苦い薬は浸透して行かないわけである。
しかし、筆者なんかもこのところ、このブログなどを通じて苦言を呈させて頂いているのだが、やってみると思っていたのと違って、ホント何の得することもない辛く苦しい行為なんだなと言うのが身に沁みて分かるようになってきた。
若い頃は叱られるより叱る方がカッコよく見えて、いつか自分もああなれるかななどと勘違いしていたのだが。
しかし実際になってみると、その実態はカッコよくもなんともなく、もっと極めて地味で極めて繊細でとても辛い作業だというのがよく分かるようになった。
私も若い頃は色んな人に叱られてそれで育ってきたのだが、いざ自分が叱る立場になってみると、まあよくこんな何の得もないことを先人たちはこつこつと地道にやってこられたんだなあと感心することしきりである。
大体、どんなに信頼関係があっても一回苦言を呈することで、そこに人間関係の崩壊や緊張が走ってくることはどうしても避けられない。
更に、最近ではパワハラやなんやかやと言って、下からの抗議・圧力にさらされることも珍しくない。
それに何より人間としての好感度というものが確実に下がる。
つまり、やって得られるいいことというのが一つもないわけで。
それでも相手のためを思って先人たちは自ら悪役になることを買って出てくれていたわけである。
そのおかげで今の私がある。
だから私もその恩返しのため、このブログを通じて敢えて苦言を呈している。
でも今、誰もこのようなリスクを犯してまで苦言を呈そうとはしない。
しかしそれで本当にいいのかな。
そういう疑問から、私はブログを通して苦言を呈することを少しずつ始めるようになったのだが。
例えば、自分たちの若かった頃のことをよーく考えてごらんなさいよ。
私なら、若い頃は本気で「自分一人さえよければ後はどうなっても構わない」なんて考えていた。
そんな尖った凶器のような私の前に立ちはだかり「人の道・男の道」を体を張って教えてくれた先人たちがいたわけで、その𠮟咤激励のおかげで今の私がある。
今の若い人達にそのような成長の場があるだろうか。
もし無いというんなら、それは間違いなく日本国の危機である。
私のこと、目先のことしか考えない我利我利亡者や、その場さえ何とかなればいいという薄っぺらな事なかれ主義者だけになってどうやってこの日本が立ちゆくか。
従って今こそ、心ある者は己の好感度などというものを捨て去って、道に迷える若者の前に敢然として立ちはだかり、正しき道に青年を引き戻す大仕事を買って出なければならない。
ただ優しいだけでは駄目である。
一方、ただ厳しいだけでも駄目なのである。
というのも、子供の躾などでも余りに厳しすぎると却って子供の人格が歪んでくるというから。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
従って苦言を呈する人は必ず根本には愛がなければならず、優しさの中に一抹の厳しさもあるという、そのさじ加減が実に難しいわけである。
ああ、でも何だか難しい時代になりましたね。
叱られる方は叱られることに慣れてなくて、必要以上に繊細で。
くわえて何ハラやらなんとかかんとか。
でもいつの時代も人間の根本は変わらないと信じて、私たちはこの道を歩んで行くしかないでしょう。
叱ることのできる大人の私で居続けるために自己研鑽を怠らず、倦まず弛まずただこの一道を極めて行きましょうぞ。
皆さん、やっぱり人間、精進ですね。
それでは。
本日も最後まで読んで下さりありがとうございました。