ホストに大量の金を貢ぐため、金持ちの男から大金をだまし取っていた女の判決があった。

誠にとんでもない話だが、一つだけ評価できる点がある。

それは、自分のためだけに金銭を使うのではなく、ホストという他人に金を渡してその他人様の幸せ(あくまで架空の幸せに過ぎないが)を願うために金を使っていたという点である。

 

キリスト教でも仏教でも、自分のためだけに生きる、儲けることはまだ幸せの半分でしかなく、他者のために生きる、儲けることで真の幸せに到達できると教えているのは周知の通り。

その点から鑑みると、この頂き女子も随分と歪んだ形であるとはいえ、自分一人の幸せだけでなく、他者に尽くすことで幸せを得ていたことはある意味、評価されてしかるべき点であろうかと思う。

 

このような愚劣な若者といえど、その内面を深く考察してみると、他者に尽くすことを自分の幸せとする崇高な志があることが分かる。

そのような他者への貢献の志を、貧しいインドの民の救済という方向に向かって発揮したのがマザーテレサ師で、師は現に聖女と崇め奉られている。

一方で、そのような他者への貢献が、つまらない東京のホストへと向かった頂き女子の場合、希代の悪女として監獄行きが決定してしまっている。

 

だが、この二人の女性の根っこにある情熱それ自体は、よくよく考えてみれば全く同じものなのである。

ただその情熱をぶつけて行く先が違うだけで、結果として聖女と悪女に差別されてしまうわけである。

 

ひまわりの花が本能的に光に向かってゆく性質を持っているように、このような愚劣な若者であろうと、やはりこのように光りに向かってゆく性質を内に秘めているということはある意味、頼もしいことでもあろうかと思う。

そのような真摯な性質がまだまだ若い人の間にも残っているということは、日本国の将来も捨てたものではないということである。

むしろ、私たちはそこにこそ希望を見出すべきなのだ。

 

それにしても改めて思うのは、それ自体では何の色も付いてない純粋無垢な「情熱」を正しい方向に向けてやることの大事さである。

我々大人の役目とはそういうところにあるのではなかろうか。

 

だが、今回の事件が示しているように、いざ若者がその情熱を社会に向かってぶつけようとした時、その若者の頭の中に去来する存在が、伝統宗教の空海様や親鸞聖人、日蓮大聖人でなかったということの意味を伝統宗教に携わる人々は真剣に反省しなければならないだろう。

今や伝統宗教のライバルは新興宗教もさることながら、新宿のホストでもあるわけで。

大量の金を持った挙句、ホストにしかワクワクする興味を覚えない若者に、どうしたら選んでもらえる宗教となるか、今一度真摯な反省が必要となるだろう。

 

伝統宗教とは、麻雀で言えば安全パイだけを揃えてある安心できる情熱の投資先ということだと思うのだが、そのような保守的な姿勢が却って若者の興味を削いでいやしないか。

安全パイの中にあえて危険な生牌も織り交ぜておくべきではなかろうか。

それは商品の品ぞろえの問題であろうかと思う。

私たちは空海様の教えの素晴らしさを知っているから、つまらないホストより数倍面白く、ためになる空海様の教えに自然と足が向くのだが、総じて若い人にはそのような伝統宗教の深さ高さ面白さはちっとも伝わってないようである。

 

そこに問題の根深さがある。

これはオウム真理教の時などでも同じような構図であった。

いい大学を出た優秀な若者が、伝統宗教なぞには眼もくれず、麻原彰晃というつまらないオッサンの魔術に見事に引っかかったわけで。

そういう意味においてはいつの時代にも共通の永遠の悩みどころなのかもしれない。

 

ただ、私たちにできるのは、こうして一隅を照らして、せめて自分のいる所だけでも真摯に耕して輝かせることだけである。

 

一方で、空海様の教え、即身成仏の考えによると、現世の矛盾もそのままですでに十分仏様の働きをなしているということであるから、そのような考えからすると、このように道を間違う頂き女子のような人も、それはそれで何らかの働きをなしているということとなるのであろう。

あのような無様な様を世間様に晒すのも、それ自体仏様の偉大なる教化の一つの現れということになる。

 

そういう観点に立つと、これまでの私の発言、情熱の正しい方向づけなどというものも必ずしも世間全体に隅々まで貫徹される必要はないということになってくる。

一応、ブログの建前上、情熱の正しい方向づけというようなことを言うのだが、仏様の観点に立つともっと現世肯定的に、悪は悪のままでいいということになる。

更に言えば、その悪を叩く上の私のような発言もまた、それはそれでよいということにもなる。

何だか矛盾するようで読んでいる人は頭がこんがらがってくるかもしれないが、それこそが密教の奥義とも言える。

 

極めて複雑なバランスの上に立っている現世肯定的な教えなのだ。

だからそれは勉めて理想的でありながら、一方で勉めて現実的である。

奥に秘めた強靭なリアリズムに裏打ちされた極めて現実的な理想主義。

全く、このようなとてつもない、人間的な複雑さを何ら損なうことなくそのまま取り入れた巧妙なシステムを考え出した昔の人の頭の良さに今更ながら痺れる私である。

 

一見すると、全く最近の若者は、というような感慨を抱いてしまう事件でも、つぶさにそれを眺めてみると、人間って変わってきているようで、古と何ら変わらない部分を持つ存在だということが分かる。

他者への貢献に真の幸せを求めるその姿が若者たちの心の中にある限り、この日本国の再生は十分に可能だと私は思っている。

そしてそのような若者が誤った道に落ち込まぬよう、こっちの水は甘いぞと言い続ける、私たち大人の責任を地味ながらも今後とも果たして行きたいと改めて思う。

 

この悪しき世を徒に恨むことなく、進んで皆さんで一隅を照らしましょう。

一人一灯でも一万人が集まれば万燈となります。

万燈となれば、その明かりは国を照らす明かりともなり得ましょう。

真の希望はそこから始まるはずです。

皆さん、倦まず弛まず、一人一人の足下から照らしていきましょう。

それでは。

 

 

本日も最後まで読んで下さり、ありがとうございました。