歌舞伎俳優の市川猿之助さんが、自殺未遂と見られる状況にあるという。
また、猿之助さんのご両親は共に死亡で一家心中の可能性も。
まだまだ情報が少なく未知の事件ではあるが、今日はそのことについて少し。
猿之助さんの自殺未遂の原因の一つは同日に女性週刊誌に出ていた女性スキャンダルが関係しているのではとの情報がある。
真偽のほどは定かではないものの。
しかしまあ、それで自殺とはおぬしも偉くなったものよのお。
死んで詫びることが許されるのは大物だけの特権だろ。
自分がそうなんだと思い込んでいるわけか。
だけどなあ、自殺なんて夢を売る商売の役者さんがやることじゃないんだよ。
大体、おぎゃあと生まれてきた瞬間から、自分じゃ何一つできない赤ん坊だったわけだろ、俺たちは。
うんことしっこの区別も何もなく、全てはおむつに垂れ流し。
飯を食うのも排便するのも全ておかあちゃんにやってもらって。
裸で生まれてきて裸で死んでゆく。
それが人間ってものなんじゃないのかい。
それを何の思い違いか、一人で偉くなったような顔をして、死んで詫びますだと ?
誰がおまえの貧相な腹など斬ってもらうことを望んでいるというのか。
そうじゃないだろ。
生きてりゃ、追い風の時もあれば逆風の時もある。
だから逆風の時はしっかり耐えて、地面に根っこをこれでもかと言うほど張りに張って、這いつくばって生きていくのが人間ってものなんじゃないのかい。
迷惑をおかけしました ?
だから死んで詫びます ?
あーん ?
生きてる限り誰かに迷惑かけずにいられないのが人間なんだよ。
迷惑かけずに生きていきますなんて水臭いこというんじゃないよ。
元々はしっこもうんこもおっぱいも、一から十まで迷惑かけっぱなしの俺たちじゃないか。
それを今更、知ったようなことを言うんじゃねえ。
役者ってのはなあ。
好きでもない仕事に日々追い立てられ、それでもその仕事を続けるしかない世間の大多数の庶民様に、辛い日々の憂さを忘れひとときの夢を見させて、ああ今日は気てよかった、また明日からも頑張れそうと笑って帰す、そういう仕事なんだよ。
それが、夢も希望もない最悪の結末を自分の人生で完結しようなんて、一番やっちゃいけないことだ。
だから、おまえの自殺を見た人はどう思う ?
ああやっぱりこの現実は、自分一人ではどうしようもできない絶望的なものなんだ。
人生ってのは、辛くて苦しいことばかり。
夢も希望もないんだな、と。
そうじゃないだろう。
どんなに追い込まれても、まだまだ立ち上がる勇気と希望が人間には本来あるものなんだ。
例えば、聖書にはこう書いてあるそう。
神に試され、これ以上先の展望が描けない絶望の淵にあったヨブに神はこう言ったという。
「ヨブよ、腰に帯して立ち上がれ」
そう、たとえどんなことがあっても神様は立ち上がるだけの能力と気力、力を私たちに与えてくれているのだ。
人間に本来備わっているはずのその力を人様に見せるのも役者ってもんの務めじゃないのかねえ。
とにかく猿之助さん。
あんたは芝居を通して、己を磨きそしてその芸で人様を泣かせたり楽しませたりする、そういう星の下に生まれてきた人なんだ。
だから神様から頂いたそのありがたいお勤めを立派に果たしなよ。
幸い命に別条はないと聞いている。
だから自分本来の道に帰ってこいよ、必ず。
今回、まだ詳細は分からないのだが、猿之助さんの女性スキャンダルが自殺未遂の原因との報もある。
そこで、最近気になる動きの一つ。
スキャンダルにあった人に対する異常なまでの世間の攻撃と世間からの抹殺について思うところを少し。
これはなかなかに微妙な問題で一概にこれがどうとかあれがとか言えない問題ではある。
元々は戦後の犯罪処罰の動きにおいて、加害者側の更生という点へ針が振れ過ぎていたという面があって、長い間被害者側の救済が置き去りにされてきたという苦い現実がある。
最近の加害者に対する苛烈なバッシングの背景にはこういう問題意識も多分にあると思う。
つまり被害者の側に立った視点からの加害者への攻撃というわけである。
それと加害者への攻撃を通しての世間に対する見せしめ、犯罪抑止の効果を狙っているという面も多いにあるだろう。
その意味では最近のこの過激な風潮も理解できなくはないが、問題は被害者の側に立つとうことは、現在の日本においては結果として「100%の正義」に立ってしまうという点にある。
完全に何の非もない100%の正義というものは実は極めて危険である。
何故ならどれほど攻撃が激化しようとも100%の正義である限り誰もそれを「おかしい」と言えないからである。
だから自然、このような攻撃はやればやるほど過激に辛辣になっていく。
そして批判の目が一切ないから、内にこもってとどまるところを知らないのである。
結果、明らかに過剰な攻撃となっていく。
本来、このような性質を持つ危険な攻撃の刃を用いるには、加害者被害者双方の心理に通じた優秀な現場監督、指揮者が是非とも必要である。
私も若い時、修行時代、ひどい攻撃(いじめ)にあったのだが、今思い起こせば、その時の私の背景にはかなり優秀な現場監督がいてくれたのだろう。
実際、苦しさの余り自殺の念が強く心によぎる度、不思議と攻撃の手が緩められ、その都度自殺のいかに非であるかというお諭がそこはかとなく浮かんできたり、或いは様々な自殺の悲惨さを知らせる事件などが実地に起こったりして、そして気が付くと自殺を免れているということが何度もあった。
猿之助さんのケースなどでも、このような現場の知見に基づいたきめの細かい采配が出来る優秀な現場監督がいれば、あのような大惨事は免れたのではないかなどと思ったりもする。
まあ実際には、今入ってくる表からの情報だけでは分からない部分も多々あるので、あまり偉そうに言えた義理でもないのだが。
つまり猿之助さんの事件の場合、あれはあれで立派に成立していると見ることもできるわけで。(これは余談だが)
しかし100%の正義という、反論の出来ない攻撃を用いる際には、このように攻撃する側に細心の注意が必要とされるのは厳粛なる事実である。
何故なら、攻撃側が自分で自分を止めない限り、止める人が他に誰もいないのだから。
だから今、求められるのはそれの出来る優秀な現場監督の存在であろう。
そういう意味では、今の時代は余りにも被害者側の救済という方向に針が振れ過ぎているのかもしれない。
もちろん、こういう問題はケースバイケースで、一つ一つ問題の濃淡が違うものであるので、こうすれば絶対安心という「一般解」を示すことはできないのだが、加害者側の更生と被害者の救済というこの二つのバランスをもう一度改善する必要があるのかもしれない。
元々、私怨を晴らすことによる被害者と加害者間にある永遠の暴力の連鎖を食い止めるため、犯罪に対して国家が刑罰を独占して加害者と被害者の間に入ることで、何とか双方をなだめるというシステムが出来てきたわけである。
だからまあその成り立ちからして、かなり微妙な問題ではあるのだが。
被害者と加害者双方の救済という、相反する二つの事を同時に達成させなければならない困難さ。
加害者は罪を償って更生し、被害者もまた延々と続く被害感情からの解放を達成しなければならないわけで。
例えば昔の話だが、可愛がっていたお子さんがいじめのような状態で川だったかプールだったかの水難事故に遭われた人がいたそう。
そこで事件の詳しい捜査が始まるわけだが、その子の父親だったか、熟慮の末こう言ったそうだ。
「今更、犯人捜しをしても虚しいだけだよ」と。
母親の方はどうにも納得いかなかったというが、しかしそうして夫婦二人で犯人を「赦した」結果、却って罪を犯した子たちの反省は深まり、毎年の命日にはその子たちが墓参りを欠かさないようになったという。
そしてその事件の罪の意識に苦しみながら育っていったことでその子たちはその後、立派な青年となったという。
そして最後にはあれだけ反対していた母親も、あの時、犯人の子たちを赦して本当によかったと思うようになったという。
あの時、一時の感情に任せて、罪の追求に躍起になっていたら、今のこういう穏やかな心境にはついにたどり着けなかっただろうと。
まあ、被害に遭われた方にこんな話をするのも酷かと思うが、かつての日本にはこういう見識の人もいたわけである。
話は変わるが、宗教の修行において一番難しいのは「ゆるし」であるという。
上記のご夫妻はだからその一番難しい修行を立派に果たされたわけである。
被害者側の魂の救済の究極の形の一つがそこにあるように私は思う。
困難な道ではあるが、それ以外に被害者の方が救われる道はないようにも思われる。
しかし、色んなことを考えさせられる猿之助さんの事件であった。
猿之助さんには早く回復してまた元のあの素晴らしい演技で人を楽しませて欲しいと心の底から私は願っている。
そして願わくば、全ての人が平等に救済されるそんな世界にならんことを願って。
本日も最後まで読んで下さり、ありがとうございました。