本日は書評です。

 

 

「人新世の資本論」、斎藤幸平 著、2020.9.22初版、集英社新書、1020円税別、2021年新書大賞受賞。

 

いやあ、しかしすごい本に出会ってしまった。

とにかくここ最近読んだ本の中では一番面白かった。

私が常々考え、このブログなどで意見表明しているその全てをこの一冊がまるごと代弁してくれている、そんな感じ。

 

資本主義の構造的な矛盾、貨幣万能世界の矛盾、そしてそのことによる代替的な新たな仕組みの必要性、そのことに私が思い至ったのは40歳を過ぎてからだった。

しかしそのような認識がこんな若い人(1987年生まれ)によってここまで見事に言語化、理論化して表現されているのを見て正直驚いた。

全くもってすごい人が出て来たものである。

 

本は資本主義の矛盾を暴くところから始まる。

私たち先進国といわれる人々の豊かな物質的生活は、実はそれらの国の外部(ここではグローバルサウスと呼ばれている)の犠牲の上に成り立っているということから説き起こされる。

 

「自動車の鉄、ガソリン、洋服の綿花、牛丼の牛肉にしてもその「遠い」ところから日本に届く。

グローバルサウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに、私たちの豊かな生活は不可能だからである。」

 

「グローバルサウスからの資源やエネルギーの収奪に基づいた先進国のライフスタイルを「帝国的生活様式」と呼んでいる、

 ・・・

だが、その裏では、グローバルサウスの地域や社会集団から収奪し、さらには私たちの豊かな生活の代償を押しつける構造が存在するのである。」

 

「そして、バングラデシュで生産される服の原料である綿花を栽培しているのは、40℃の酷暑のなかで作業を行うインドの貧しい農民である。

ファッション業界からの需要増大に合わせて、遺伝子組み換えの綿花が大規模に導入されている。

その結果、自家採取の種子が失われ、農民は遺伝子組み換え品種の種子と化学肥料、除草剤を毎年購入しなくてはならない。

干ばつや熱波のせいで不作ともなれば、農民たちは借金を抱えて、自殺に追い込まれることも少なくない。

ここでの悲劇は、帝国的生活様式による生産と消費に依存しているグローバルサウスも、グローバル資本主義の構造的理由から、この平常運転に依存せざるを得ないことにある。」

 

このような資本主義(主に先進国の)の矛盾を外部に押しつけるやり方には大きく分けて三つの型があると本書では述べられている。

第一は「技術的転嫁」。

これは技術の開発によって環境への負荷を軽減するというもの。

一見良さそうに見える技術の発展だが実は違っていて、実際には技術の革新によって一時的に問題の本質を覆い隠すだけのことに終わることが多く、さらにその後には問題の根がより一層深くなっていることがほとんどだという。

 

例えば、ハイブリッド車。

その先進技術の導入によって確かに走行時の二酸化炭素の排出は減るのだが、しかしハイブリッド車に大量に使用されるリチウム電池の製作にあたって、却って環境の負荷が高まるという。

それはリチウム電池に使用されるリチウムの採掘には地下水の大量吸い上げが必要だからで、そのような大量の地下水の汲み上げは地域の生態系に大きな悪影響を及ぼすという。

 

さらには完全電気自動車になってさらに走行時の二酸化炭素の排出を減らすことに成功したとしても、車自体の製造工程で排出される二酸化炭素を計算に入れると全体での二酸化炭素の排出排出量は大して減らないことが分かっているそう。

どころか、バッテリーの大型化で、全体としての二酸化炭素の排出量はますます増えることになるらしい。

 

第二が空間的転嫁。

これは上の本文からの引用で見てきた、先進国からグローバルサウスへの地域格差に基づく問題の転嫁である。

 

そして第三が時間的転嫁。

これは現在世代がその繁栄を無責任に謳歌することによって、未来世代の繁栄分まで先取りしてしまい、その負担を未来へと押しつけることである。

 

このような難題を解決するにあたって、この本の著者が提唱しているのが「脱成長コミュニズム」である。

これは気候変動問題に対して、資本主義の宿痾である経済成長を諦めることによって問題の解決を図ろうというものである。

そのため著者は、経済成長を前提とするグリーンニューディールやエコ社会主義を厳しく批判している。

ついでに言えば、国連のSDG'Sも。

それらがどのように素晴らしい未来を描いているものであっても経済成長が前提となっている限り気候変動の問題には対応できないというのである。

 

資本主義にどっぷりと浸かった身には脱成長とは恐ろしくもあるが、著者は道はそこにしかないと説く。

江戸時代のような循環型経済、むやみな成長を求めない定常型経済への移行こそ必要であると。

そしてそのために労働と生産という根本問題に手を付けよと述べる。

生産の自治管理、共有を通して資本主義を変革していくこと。

 

そして資本主義の矛盾の最たるものである価値と使用価値の対立の克服。

価値とは分かりやすく言えば、使い勝手には関係なく「ただ単に売れる物」ということ。

一方使用価値とは、実際の使用にあたって必要かつ十分な機能を有している物。

資本主義においてはこの二つが時に乖離する。

 

例えば、身体にいい自然栽培の地の物、旬のもの(栄養が豊富)は食べ物という本来の「使用価値」を満たした理想的な野菜だが、しかし値段の関係などもあって必ずしも「売れる」ものではなかったりする。

一方、そのような食べ物本来の使用価値を蔑ろにした大量の農薬と化学肥料を使って作られた形も均一な安売りの野菜は「売れる」という意味において「価値」があるとみなされる。

この場合、資本主義においては後者のような売れる野菜こそが重宝され前者のような真面目な生産物は売れないため邪見にされるという価値の転倒が起こってくる。

 

これがマルクスのいう価値と使用価値の対立ということである。

で著者はその克服のために利潤追求による価値体系を改め、使用価値を前提とした経済の再構築を提唱する。

その際、キーになるのが「脱成長」ということなのである。

つまり利潤を出さないでもやっていける経済。

利潤の追求が狂わせた物本来の使用価値の復権こそ、ここでは重要な課題となる。

 

そして資本主義がもたらす希少性による利潤追求を克服するため必要なのが公共空間、公共資源の復権である。

資本主義以前の世界においては、例えば食料などの農産品はコモンと呼ばれる共有地で採取された誰でも簡単にアクセスできる場所で「豊かに」提供されていたという。

しかしそのように「豊かに無償で」食料が提供されていると、誰も「商品」としての食料を購入しようとしない。

そのため資本はそのような共有地を片っ端から解体して全ての土地を私有化することで楽園から人々を追い出し、貨幣による「商品」の購入へと駆り立てたという。

 

で今、資本主義が矛盾を最大化させているこの時に、逆にそのコモンを復権することで資本主義に対抗しようと著者はいう。

水や食料、社会にとって必要な基本インフラなどは資本の論理から遠ざけることで人びとの間で共有化し、そのことで資本の欲動を止めようという壮大な試みがそこに現れてくる。

これはかつてのソ連型の国有化とはまた違う試みである。

ソ連型の経済が国有化の下で生産力の増強に務めたのと違ってコモンにおいては、成長を求めない。

むしろ多少の衰退は受け入れるという点がソ連型の国有化経済とは決定的に違っている。

 

ソ連型の経済は生産力至上主義から脱し切れていなかった。

しかしコモンの経済は脱成長、そして国有化という縦の関係ではなく人々の横のつながりを重視したアソシエーションが主体である。

まさに上策は自治にあり、というわけである。

そしてそのような社会への移行を著者は晩期マルクスの読み直しから導いていくのだ。

 

まだまだ書きたいことは山ほどあるのだが、詳しいことは本書を読んで頂ければその素晴らしさがお分かりになると思うので興味のある人は是非。

人が作ったものではない自然法則は人の手で勝手に変えるわけにはいかないが、一から十まで人の手で作られた経済は実はいくらでも変更可能なシステムといえる。

資本主義が行き詰まり、環境問題が深刻化している今、成長を求めてどこまでも止まらないこの経済システムを変えることが喫緊の課題なのではないだろうか。

そのためのヒントが本書には随所に散りばめられている。

そんなすごい本を書いた著者と同じ時代を生きられたことを誇りに思う。

是非皆さんご一読を。

 

 

最高の本を書いてくれた著者の斎藤幸平さんに感謝。

その本を出版してくれた集英社新書さんに感謝。

その本を売ってくれていた宮脇書店さんに感謝。

その他、関係者の皆さんに感謝。

今日も最後まで読んでくれたあなたにありがとう。