本日は書評です。

 

 

「談志 最後の落語論」、立川談志著、ちくま文庫、2018.10.10、税別740円。

2009.11、梧桐書院より刊行されたものを文庫化。

 

この本に出会ったのは高松瓦町にある本屋ヌルガンガでのこと。

例の如く、映画館ソレイユの時間待ちで入った時のことである。

ちょっと立ち読みして、これはすごい本だなと思った。

世の中の真理というものが落語を通して深くえぐられている。

 

聞けば、談志師匠、二十代で伝説のロングセラー「現代落語論」を著し、その後も落語に関する多くの著作を残されているという。

落語だけでなく文章の方も天才なのだ。

 

解説にも書いてあったが、談志師匠は一流のプレーヤーであると同時に一流の評論家でもあると。

立川談志という存在を一言で表すには、まさにそれ以上の言葉はないということができるだろう。

そしてそれこそが、通常の人では感じない余計な苦労を師匠が一人背負っている所以でもあると思う。

自らの内にある激しい批評家としての眼。

 

今回、この書評を書くにあたって、全くの忖度なしでのガチンコ勝負を師匠の文章に対して挑んでみたいと思った。

なんとなくだけれど、その方が師匠も喜んでくれるような気がしたからである。

なんで今回は、遠慮することなく書きたいことを書かせてもらうことにする。

読者諸兄には悪しからず。

 

一読して感じたのは、とにかく中庸の徳と言うのからは程遠い人なんだなということ。

何事においても、突き詰めて極めていなければ気が収まらない。

だから易経でいうと、上九の位置にいるような人で、陽極まって陰に転ずというギリギリの所にいつもいる人なのである。

 

易経では、治極まって乱生じ、乱極まって治生ずというが、師匠の場合は常に「治極まっての乱」の匂いがプンプンする。

また乱は爛でもあり、腐りかけのようでもあり、そして常軌を逸して狂気の入り口に立つ姿のようでもある。

実際、本書の中でも師匠は晩年の自分を狂気の世界に片足を踏み入れている状態なのだと書かれているわけだし。

 

そういう師匠だから、己にも厳しいが、人にも厳しい。

しかし世の中、師匠のように才能ある人ばかりではない。

で、そのような非才の人が集まって、何とかよろしくやりながら、みんなの力で漸進してゆく、若しくは停滞していくのが世間というものではなかろうか。

しかし自分一人で完璧を極めようとする師匠には、そのような世間の淀みが許せない。

 

下手くそには厳しい師匠。

しかし長い目で見れば、下手には下手の役割があり、一方では名人上手もいて世の中上手く回っているのだが、それを見て「まあ、いいじゃないか」と安穏としていることができないのである。

ある意味、それが談志師匠という人の限界かもしれない。

 

今、限界と言ったが、この世の中、一人だけで全てを備えた完璧な人というのはいない。

かくいう私も、現状追認に甘んじるあまり、人に対して厳しいことが言えないという「限界」を抱えている。

これは師匠とはちょうど正反対の「病」である。

でも自分一人という枠を外して広い世間に目を向ければ、そのように色んな個性のある人間が集まることで全体として世の中は上手く回っていることに気付くことができるのではないだろうか。

 

その点に関してもう少し別の見方をすると、談志師匠という人は本質的に上手く老いるということができなかった人だったと言うこともできるかもしれない。

若しくは老いることができても、そのような老いていく自分に上手く順応できなかった人ともいえるだろうか。

 

「老人力」なる本を書かれた赤瀬川原平さんのような、老いることを楽しむようなノリは師匠にはない。

老いとは今までできていたことが一つ一つできなくなっていくことだと思うが、それを悲観するのではなく楽しめるかどうかは個人の資質にもよるし、所属する社会の環境にもよるだろう。

その点において師匠には、あまりそういう視点はなかったように思われる。

少なくとも本書における師匠の文章からは、今までできていたことができなくなることへの恐怖と悲観の方が強く出ているように感ぜられた。

 

そんな風に舌鋒鋭い師匠の文章だが、不思議なのは読んでいてイヤな感じというのが微塵もないことである。

それは師匠が自分の頭で考え、自分の体で感じ、自分の言葉で文章を綴っているからであろう。

その意味において言葉にウソがない。

 

それと関連することだが、師匠は自分が知らないことを知らないと素直に言える人で、また分からないことに関してもちゃんと分からないと言える人でもある。

そういうところは読んでいて偉いなと思った。

筆者も自分自身を振り返ってみて、知らないことを知らないと素直に言えるようになったのは厄年を過ぎてくらいからだと思う。

それ以前は、他人の目を気にして知らないことがあるのは恥ずかしいという感じだった。

だから知らないことを知らないと分からないことを分からないと、長い間、素直に言えなかった私なのである。

だからそういうことを自然と出来る人に私は尊敬の念を持つ。

 

本文中には師匠独自の笑いのセンスによるお勧めのジョークなどが紹介されているが、中には正直どこが面白いのか分からないものもあった。

なぜそれが面白くないと感じたのかについては深くは分からない。

身振り手振り、そこに声色が加わっての生の情報でない、「書かれた」文字になっているせいかもしれないし、若しくは師匠がいうところのドサ(田舎)の感覚の持ち主である筆者の感覚の鈍さのせいかもしれない。

私は田舎の人間なので、師匠いうところの江戸の粋の本当のところは正直分からないからである。

 

今回は本文からの引用がなく、何だかとりとめのない文章となってしまったが、最後に言っておきたいのは、この本は読みだすと止まらなくなるほど面白い本であるということ。

実際、筆者は二回、全文を読んだのだが、二回とも二、三日で一冊軽々と読み終えてしまった。

読むのが遅い筆者としては異例のことである。

 

「落語は人間の業の肯定」、「言ってはいけないこと、思ってはいるが皆が言えないでいることを代わりに言うのが立川談志」と仰る師匠。

残念なのは師匠が生きている間にその高座を生で拝見することがかなわなかったことである。

その頃の私はパニック障害を発していて、ライブの類は全くダメな状態だった。

よく岡山なんかにいらしてたのになあ。

電車で四十分だぜ、岡山。

後悔先に立たず。

最後に師匠の冥福をお祈りして。

 

 

最高の本を書いてくれた立川談志師匠に感謝。

その本を出してくれた筑摩書房さんに感謝。

そしてその本を売ってくれた本屋ヌルガンガさんに感謝。

その他、関係者の皆さんに感謝。

今日も最後まで読んでくれたあなたにありがとう。