男女平等の機運が世界的に高まっている。

今日はその可能性と限界について少し思うところを書いてみることにする。

 

易によればこの世の成り立ちは陰と陽の原理であるという。

陽の気は木に例えれば、次々に分化発展してゆく枝や葉の働き。

逆に陰の気は、分化発展して常に統合から遠ざかろうとする枝葉末節を束ねる幹や根の働き。

 

木の葉っぱは繁り過ぎると必ず病気になったり虫が付いたりするそう。

だから優秀な剪定師は常に全体を見ながら無駄な枝葉にハサミを入れて木の健康を一定に保つという。

つまり分化発展とは常に退廃の危険を伴うものであるようなのだ。

 

男女の社会的役割が固定されていた江戸時代において、武士(男)を支えていたのは、武家の女の力であったという。

安岡正篤先生の話によれば、地方の武士はともかくとして江戸などの都会の武士はかなり早い時期から退廃の極みに達していたそうだが、しかしそんな中でも武士の世が長く続くことができたのは武家の女がしっかりしていたからだそう。

分化発展する男の陽の論理を陰の論理を体現する女がしっかりと支えるというある意味理想的な形がこの時期の武家社会にはあったことが分かる。

 

一方、武家を離れて農村の方に目を向けると、農民の基本は夫婦共働きであったようである。

現在の共働きと一番違うのは、職住近接であった点であろう。

住んでいるところと働いているところがほとんど同じということである。

 

つまり武家の女は専業主婦であったようだが、農村の女はそれとはまた違っていたようだ。とは言うものの、家父長制の原理は強かったのだろうか。

で、その農村で男と女がどんな役割分担をしていたのか、どれほどその役割分担に自由と柔軟さがあったのか、そういう方面の研究には私は疎いので、詳しい人があったら教えてほしいし、そういう研究があったら読んでみたいと思っている。

 

一方、現代に目を移すと、現在の日本社会におけるサラリーマンの夫に専業主婦の妻という形態は、近代にはいってから構築された図式かと思うが、これは近世の特に武家社会の家族制度の在り方を引き継いだものだと言えそうだ。

男は外に出て陽の論理でバリバリと働き、女は陰の原理で家庭を守る。

 

しかしその後のフェミニズムの進展で、女たちは家の中から飛び出して外に出始める。

しかし、社会の表舞台に出るということは陽の論理に身をさらすということであり、となれば必然退廃を免れないということでもある。

陽の原理をもって分化発展するのはいいのだが、その結果、枝葉末節のみが盛んになれば文化は次第に末梢的変態的になり堕落退廃を免れない。

 

現に私が若い頃、おやじギャルというのが流行ったことがあった。

これはその頃の若い女の人がそれまでオッサンの専門分野だと思われていた競馬や赤ちょうちんの世界に進出して、まるで脂ぎったオッサンのように文化の堕落退廃を楽しむという現象を指していたことをいう。

かつての賢く身持ちのいい女の理想はどこへやらという世間の嘆きが半分入っていた言葉だった。

 

しかしそうなると社会全体で見渡した時、かつての男性が陽、女性が陰という住み分けがなくなった世界では、陽の原理だけが盛んになり陰の原理を支える人がいなくなるという現象が現れてくる。

これは深刻な事態で、場合によれば国が亡ぶ原因ともなりかねない重大事態である。

漫才で言えばボケばっかりがいて、ツッコミが一人もいないという状況である。

 

話は変わるが、この前新聞でヤングケアラーというのが現在問題になっているというのを読んだ。

ヤングケアラーとは、家庭の事情で父母やその他家族の病気になった大人たちをまだ学校に通っている生徒児童が介護することをいうらしい。

フェミニズムと資本主義が躍起になって壊してきたこの封建的家庭という装置が今や崩壊寸前となり、そのしわ寄せが子供たちに行っているそうなのである。

介護の大変さの余り、学校に通えない子も多くいるという。

 

その昔、女性は家事労働を通じて家を整え、陽の気で突っ走る男たちや子供たちに安心して帰ってこれる場所を提供していた。

陰の原理には、風になびくように主体性がないという意味もあるが、昔の女性は過剰な自我を捨ててあえて家族のために身を尽くしていたわけである。

この点を近代フェミニズムは不服としたわけだが、しかしそれはあくまで表面の論理において主体性がないというだけで、その実は女性こそが男や子供を動かすインサイドワークを駆使していたのは明らかである。

実は封建時代とは、虚心坦懐にみれば女の時代であったのだ。

それは表に立って社会を動かす男どもを手の平で転がすという意味において。

社会の内側の見えないところから男どもを操っていたのは実は女なのである。

近代フェミニズムはついにこのからくりを見抜くことができなかった。

 

ついでに言えば、このような近代フェミニズムの発展は、資本主義の発展とリンクしていることは明白であろう。

資本の論理が大家族より核家族を好むように、フェミニズムもまた伝統的な家族を憎むのである。

資本の論理が核家族を好むのは各家庭に必要な家や財産、家電用品の需要が大家族なら大人数に一つずつですむところを、核家族なら全社会的に見て大家族の場合より明らかに多く需要が望めるからである。

分かりやすく言えば、7人家族で必要な冷蔵庫は一つだが、3人家族が二世帯だと冷蔵庫は二ついる計算になる。

だから資本の論理は常に伝統的な大家族をバラバラにしようとする。

そして最後は家族そのものを解体して個人にまで分解するのである。

そうすると冷蔵庫も車もさらに多く需要されるから。

 

話を元に戻す。

もちろん、今の女性にかつてのような役割をそのまま求めるわけにもいかないだろう。

時代は常に動いているのだから。

江戸時代が男尊女卑の時代であったといってもそれは極く狭い武家社会だけの話であった可能性も充分にあるわけで、一般の農民などではまた違った家族形態があったようにも思えるわけである。

私たちもまた、そのように固定された形にとらわれない新しい陰と陽の原理がバランスよく配合された社会を実現しなければならないだろう。

 

そのためには、場合によっては男が陰の原理を体現せねばならない側面も出てくるのではないか。

また一方では旧来の賢婦人の美徳を復権させることも必要であろう。

とにかく今は社会全体が陽の原理に傾き過ぎているのが問題なのである。

反面、陰の原理を担当する人が少なすぎる。

 

再び安岡正篤先生の話によれば、国の省庁とは省くという字が入っている通り、煩雑になり過ぎた民間の社会の無駄を省いて、適度な繁栄状態を維持することが本来の仕事なのだそう。

やたらと新しい法律を作りまわったり、煩雑の上に煩雑を重ねるような過剰な付け足しをするのが仕事ではなく、あくまで要らないものを省くのが省庁ということである。

陰の原理とはそのようなものであり、それが君子の道だということである。

 

最後に。

儒教の「世を治める原理」に修身、斉家、治国、平天下というのがある。

修身とは、個人つまり自分自身を道にかなった状態に収めるということ。

斉家とは修身が出来た人が次に、自らの家庭を道にかなった状態に治めること。

治国とは修身斉家が出来た人が、地方自治体を治めること。

そして最後の平天下とは、修身斉家治国が全てできた人が国家或いは世界全体を丸く治めるということ。

 

道にかなうとは中庸の徳を体現するということで、これは陰と陽の原理が共に絶妙のバランスで働かないと実現できないことである。

木に例えると、枝葉も勢いよく伸びる力がないと、そもそも木としての生命力に欠けるわけだからそれはとても大切なこと。

しかしその伸びる力が強すぎて、葉が繁り過ぎて病気になったり虫が付いたり、陽光が行き渡らなくなったりしては元も子もないから、陰の力でもって幹と根で葉の繁りを頑張って支えるか若しくは外から手を入れて剪定の力で適度な状態を維持するかのどちらかをしなければならない。

そのようにしながら、陰の力と陽の力が巧みに拮抗する状態が理想なのだ。

 

人間もまた同じであろう。

己を整え、家を整え、国を整える。

基盤となる力は外に延びようとする陽の力だが、延び過ぎを諫める陰の力もまた必要なわけである。

一人の人間の中にも陰と陽があるように、社会の中にも陰と陽があって、時とところを変えながら柔軟にその場に応じた働きができるようになるのが理想なのかもしれない。

しかしそんな器用な人ばかりがいる世間でもないから、それが上手くできないというのなら、かつてのように固定的な関係性を新しく模索するのも一つの見識といえる。

 

あなたはどんな社会をこれから作っていきたいだろうか。

そしてそれは道にかなった社会だろうか。

そして誰も泣く人がいない理想の社会だろうか。

困難に直面しながらも楽しんで前を向いて立ち向かっていける社会だろうか。

理想だけじゃなく現実もしっかり見据えた堅実な社会だろうか。

共に考え実践していきたいと思う。

 

 

本日も最後まで読んでくれたあなたにありがとう。