本日は映画評です。

 

 

2021.3.6 (土)、映画「花のあとさき」、多度津町民会館、開場十三時半、開演十四時、全席自由前売り1100円。

 

監督・撮影は、ムツ婆さんに惹かれて十八年にわたり取材を続けてきたNHKカメラマン、百崎満晴。

プロデューサーは「新日本風土記」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した伊藤純。

語りは「NHKスペシャル」などのナレーションで放送文化基金賞を受賞した長谷川勝彦。

平成十四年から放送されて大反響を呼んだ七本のドキュメンタリーシリーズを集大成し、映画のために書き下ろされたオリジナル楽曲と未公開シーンを加えてお届けする作品とのこと。

 

 

十三時半過ぎに会場入り。

駐車場は会館の敷地内にとめることができた。

着いた時には敷地内の駐車場は満杯寸前で、なんとかギリギリ滑り込んだ形。

感謝、感謝。

もちろん、ここがいっぱいなら他にも駐車場は用意されているのだが。

その場合は少し離れたところに駐車場があるので、若干歩くことになるだけで。

 

受付では、チケット半券の裏に名前と電話番号を書いて渡す。

コロナ対策。

中に入ると、すでにけっこう人が入っていて、思っていたよりずっと盛況だった。

 

 

十四時過ぎ、上映開始。

最初に結論から言ってしまうと、この映画は何も起こらない映画である。

もちろん厳密に言えば、動画なのだから何かは起こっているのは確かなのだが、いわゆる通常の劇映画らしい、派手派手しいことは何も起こらないという意味においてである。

主人公の小林ムツさんを七十代の頃から追いかけて撮っている映画。

 

そのムツさん夫婦は、長年親しんできた山奥での生活の基盤である自ら所有する畑を潰して花を植える活動をしている。

後継者もいないこの村、この家族の老いの身支度というわけである。

考えてみれば、畑とは人間の都合で自然の論理を勝手に組み替えて利用しているものといえるわけで。

それをもう一回、本来の生な自然の形に返して行こうというのがムツさん夫婦の意向。

しかしただ返すのではなくきれいな花を植えて、ひと手間加えて返すというところがミソ。

 

しかし、そのような僅かな人間のひと手間、抵抗も自然の厳しい論理の前では風前の灯火に過ぎず、いずれ大きな流れの中に取り込まれて跡形もなく消滅してしまうものなのであろうか。

しかしそうとは分かってはいても、何かしら生の痕跡を残さずにおれないのが人間というもの。

それに生きている限り、常に前を睨み進み何かしらしていないとおられないという宿命が人間の中にはあると思う。

余談だが、フロイトはそのような人間の無意識の生の欲動をリビドーと呼んだ。

 

 

ムツさんたちの暮らす村は秩父の山奥にある。

山の暮らしは厳しいものだが、それゆえの楽しみもあるという。

水の手配、薪の手配から始まって何でも自分たちで解決しなければならないのが苦労の源だが、逆に言うとそれは何でも自分の思うように物事を決められるということでもある。

つまり究極の不自由は究極の自由に通じているというわけである。

一方では厳しい山の暮らしだが、一方では都市生活にはないそういう気楽さがあるという。

 

山は戦後すぐの政策の影響で、杉の植林が大量になされた。

しかしその後、輸入外材が安く手に入るようになって山に植えられた大量の杉は放置されるようになったという。

しかし、杉はそのままにしておくと、フジという蔓性の植物に浸食されたり、余分な枝を打たずにほったらかしにしておくと、節の多い木になって売り物にならないそう。

どうしても人間の手入れが欠かせない木、それが杉なのだそうだ。

だから村の人達は一文の得にもならないと知りつつ、地道に手入れを続けているという。

誰かがやらねばならないと一人ごちながら。

 

その杉についてムツさんは、大切な自分の畑を荒らされたイノシシに同情してこう言う。

曰く、昔この辺りではイノシシのエサとなる木の実の成る木を片っ端から全部炭にして売って、その後、杉を植えたのだと。

以前はエサの元となる木を大量に刈られ、今度は木の実の成らない杉を植えられた。

だからイノシシは可哀そうなんだと。

畑を荒らしに来るのも無理はないと。

なかなか言えないセリフである。

 

ムツさんから見ると人間に悪さをするイノシシも、自分と同じ地平にある山の恵みを分け合う仲間なのだろう。

自己と他者を此岸と彼岸に分けて配置して眺めるのではなく、同じ地平にある仲間として物事を考える。

日本的アニミズム信仰の真骨頂がここにはある。

自分も他人も同じ自然界という一つの輪の中にあって分け隔てのない平等な立場の生きもの、どこまで行ってもそこには「特別」などというものは存在しない「自然という名の神様」の前ではあくまで皆平等という円環的思考。

 

他にも、うどんを手打ちして作ったりとか。

そのうどんを作るのに大量の水を水道水を使って処理するのだが、そこでムツさんが一言。

水道が出来て本当に良かった、と。

昔、水道のなかった時代には、遠くまで肩に担いで水を持ってきていたそう。

子育ての時などはそれこそ大変で、背中に子供をしょって、肩に水という荒行のような苦労もあったという。

更には畑の草取りに落ち葉を拾っての堆肥づくりと山の暮らしはどこまでも手づくり。

そしてご先祖様が築いてくれた高度な技術と手間のかかる美しい石垣。

 

最後に。

自然環境問題で一番の批判者は、物言わず消えていく動物や植物などの種の多様性の喪失なのではなかろうか。

これらのものたちは、選挙権も持たず、自らの主張もせず、ただひたらすら静かに消えていく。

考えようによってはこれほど辛辣な批判はないわけで。

 

何も言わないでただ消えていくだけだから、ラッキーと思うのは底の浅い話で、気づいた時にはもう手遅れで結果として手痛いしっぺ返しを受けるのは、「地上の王」たる私たち人間なのだろう。

この映画の中で静かに消えていく山奥の村人たちもそれとよく似ている。

一人また一人と音も立てずひっそりと消えていく。

自然界の無言のメッセージと同じく、ここには私たち人間が見逃してはならない重要なメッセージがあるのかもしれない。

 

映画の最後、主のいなくなった無人の村でかつてムツさんが植えた花がきれいに咲く。

ムツさん、あなたの植えた花が今年もまたきれいに咲きましたよ。

こうやって無言の内に受け継がれてゆくものがある、それこそを大事にしたい。

そう思わせてくれる映画。

心に沁みる静かな佳品。

機会があれば皆さんも是非御覧になることをお勧めします。

 

 

最高の映画を見せてくれた、今は亡きムツさん夫婦と村の人達に感謝。

映画を作ったNHK取材班の皆さんに感謝。

その映画を上映してくれた多度津町民会館さんに感謝。

そして今日も最後まで読んでくれたあなたにありがとう。