子供の頃、テレビなどを見ていると年老いてなお美しい女の人なんかが出たりなんかした時に決まって母親が「わあ、きれいな人」と褒めているのが実に不思議だった。

まだ子供だった私には、その美しさが丸っきり理解できないのだった。

顔は皺だらけで、全体的に肉がたるみ、おばあちゃん然とした風貌で一体どこがきれいなのか。

いつも理解に苦しんでいた。

年老いた女の人の美しさを理解するにはある程度の美的修練と価値観の転換が必要なのだろう。

 

花の盛りはいつも決まって人生の中間頃だと思う。

自然界に咲いている花を見るとそうだ。

まずは双葉から始まってやがて花を咲かす。

が、その美しさの絶頂は花の命のちょうど中間地点で、それを過ぎると花は次第に衰えて行き、しおれて枯れてやがては茎ごと枯れ果ててその短い命を終える。

 

儒教では、自然法則の性質は「誠」というが、花の命を見るだけでもそのことの正しさはよく分かる。

きれいな花だから、後半生の枯れる部分は免除してあげようとかいう「忖度」はそこには一切ない。

きれいだろうが汚かろうがどの花も同じように残酷な終末を迎える。

自然法則の無慈悲な「誠」とはそういうことである。

きれいに咲くのは決まって一回限り、後は枯れるだけという、どの花もその運命からは逃れられない。

 

人間もまた然りである。

美しく咲き誇るのはほんの一瞬で、後は長い年月の枯れ行く侘しい人生行路が待っているだけである。

人生の前半戦、若い頃はその盛りの花が満開になる一点のみを目指してひたすら成長しよう努力する。

世阿弥の芸論で言えばそれは「時分の花」ということになる。

だから若い時には、その残酷なまでの華々しい美しさしか目に入らない。

 

では、枯れ行く人生に美を求めるのは無駄な努力なのだろうか。

私はそうは思わない。

枯れ行く花には枯れ行く美しさが宿っていると思う。

その美しさを理解することが、人生後半生の老いを生きる者にとって必須の教養なのだと私は考える。

世阿弥の芸論で言えば、「まことの花」ということである。

 

話は変わるが、江戸時代までの染色の専門家の間では、一つの色の中に無数のディテールの違いを見分けて、例えば緑色ならその緑色のわずかな違いに着目してそれこそ膨大な色の違いを識別していたそうである。

しかもその無数の緑色にそれぞれ風雅な名前を付けてちょっとした違いを楽しんでいたようである。

ここには、さして面白くもない日常を面白いものに変えようという意思が宿っているように思える。

 

鮮烈な色や派手な色彩というのはすでに開発され尽くしていて今更称揚するのも新味に欠ける。

でも染色家としては日々の業務には努めなければならない。

そこで、ちょっとした違いに目を付けてそれを識別することを楽しむ、日本文化に特有の細部にこだわる遊び心を昔の染色家さんたちは存分に発揮したわけである。

またその無数に識別された色にそれぞれ付けられた雅な名前は遊び心を更にくすぐる仕掛けとなっている。

 

年老いた女の人の美を楽しむ思考というのはこれに似ていると思う。

そのままでは、さして美しいとも思えないものをその細部に着目して何とか美的に面白いものに変えてゆく。

これは年老いた男を見る場合も同様である。

老いの現実を一旦素直に受け入れて、しかしその枯れ行く醜さを新たな美しさへと還元してゆく。

それは何気ない日常の絶対法則に対するささやかな抵抗でありながら、実は共存であり、そこにこそ人間生活に特有の高度な楽しみが潜んでいると思うのだがどうだろう。

 

先ごろ本屋で今話題の「平家物語」の現代語意訳の本を立ち読みしたのだが、その冒頭に紹介されていた物語が、平清盛に愛された白拍子二人の物語であった。

その絶世の美しさで清盛に愛された一人の白拍子。

そしてそこに新たに表れる若手の白拍子。

その時、清盛は新たに現れた若い白拍子の美しさにすっかり心奪われ、今まで寵愛してきた元の白拍子を捨てる。

 

生活が落魄し、惨めな様を見せる元白拍子。

彼女は悲嘆の余りその美しさを投げ打って、髪を落として出家する決意を固める。

しかしそこに、その白拍子を追い落としたはずの若い白拍子が訪ねてきて、世の無常を感じたため、共に出家したいとも申し出る。

清盛の移り気の残酷さを目の当たりにしたその若い白拍子は、明日は我が身とすっかり怖くなって出家することにしたという。

時分の花の残酷さを語る物語である。

その一瞬の人生の儚さに失望した女たちはこぞって、永遠に変わらない「まことの花」を出家に求めたわけである。

 

こんな風に、時分の花を脱してまことの花を得たいと考える若い人達のために我々年寄り連は人生におけるまことの花へと至る道をしっかりと把握していなければならないのではなかろうか。

それが長い人生における希望の道であることを若い皆さんに対して示すべく、後半生を楽しく生き抜くための美的で優雅な価値の転倒をしっかりと構築しておくこと。

それは人生百年時代の今日、我々年寄り連に課された喫緊の課題であるようにも思える。

 

年老いた女の人には特有の美しさがある。

例えば、つい最近亡くなられた八千草薫さんなんかそういう感じの人だったように思う。

若い時も相当な美人さんであったらしいが、やはり年老いてからの美しさにより味があったように思う。

飾らず自然体でしかし気品があって、なんかあんな風に年を取るって素敵だなという感じなのである。

いかにも美人美人したところが少しもない、実にゆったりとしたくつろいだ美しさ。

真にあっぱれな「まことの花」っぷりであった。

 

枯れ行く花に美しさを求めて、無慈悲な自然に課せられた残酷な美の落魄を、アンチエイジングなんてアホな幻想に身をやつすことなく、楽しんで全うしてゆこうではないか。

若い人たちにその楽しさはすぐには伝わらないだろうけど。

それは自分たちが若かった日のことを思い出せば理解できるはずである。

若い頃にはどうしても絶頂期の満開の花の美しさしか目に入らない。

でもそれでいいのだ。

彼らも盛りを過ぎれば、そのことの必要性がわかるようになるだろう。

誰にでも訪れるやがて来るその日のために我々年寄り連が細いながらも確かな道を作っておけばいいだけの話である。

 

さあそれでは、今日も元気に枯れて行くとしますか。

全国の年寄りの皆さん、覚悟はいいですか。

盛りの花より美的に、もひとつ上の枯れた枝。

どうだ、若造よ、参ったか。

あはは、まだわからないか、枯れた花の味なんざ。

それでも皆さん、奢ることなく日々精進していきましょうぞ。

それでは。

 

 

本日も最後まで読んで下さりありがとうございました。