仕事にいきがいや自己実現性を求める必要は必ずしもないと思う。
もちろん、幸運にもそういうことを求められる環境にある人はおおいにそれらを求めて行けばいいと思うのだが。
しかし、たいていの人はそういう仕事には就けないのが現実であると思う。
私もそうであった。
かつて若いころは、文学者を目指していた。
退屈な日常などまっぴらだと思っていたからである。
逆になにかこう、毎日ヒリヒリするような刺激に満ちた日々を送りたいと考えていた。
そしてそれにはクリエイティブな仕事に就く以外に夢は達成されないという風に思い込んでいたのである。
しかし夢はかなわず、現在に至っている。
今では文学者になどなりたいとも思わないようになっているが。
なぜなら、若いころと違って、退屈でワンパターンな日常にこそ、かえって魅力を感じるようになったからである。
もちろん、すぐにそうなれたわけではなかった。
最初のころは自分の意に反して、就職をすることがいやでいやでたまらなかった。
ところが、そうして意に反するまま、いくつかの仕事をやめたり続けたりするうちに、次第次第に現在のような心境に至るようになった。
途中何度か、仕事をやめていた時期があったのだが、その時には「やることがない」ということが人間にとってどれほど苦痛であるかを感じるに十分な時間であったのを覚えている。
人間というのは何かしていないといけないように体がなっているのだと思う。
孔子は「博打でもいいから手を動かせ」と言ったそうである。
そこで改めて、雇用の重要性に思い至るようになった。
雇用とはお金儲けの意味だけではないのである。
「なにかしなければ日々しのげない」人間の基本的欲働を満たし、そのことにより社会全体の安定に寄与すると言う側面もあるのだと気づいた。
そして、また改めて働き口を見つけに出かけるのだが、今度はなかなかいいところが見つからない。
そこで気づいたことは、自分の要望を社会に求めて求職するよりも、社会的に必要とされている分野へこちら側が自分の希望をあわせて求職すれば割とすんなりと職に就けるという事実であった。
この時初めて、社会的分業の意味が体で理解できたのであった。
そして現在にいたるのだが、今の仕事は製造業である。
工業は昨日の製品と今日の製品が基本的にまったく同じであることが求められる職種である。
だからけっこうワンパターンの日常である。
ただワンパターンとは言っても、仕事自体はやすりがけの仕事なのだが、それなりに奥の深い部分もある。
ものによってやすりの磨り方が違うからである。
だからある程度の経験と知識は必要になってくる、それなりに難しい仕事でもある。
で、改めて思うのだが、仕事は必要最低限、私の今の仕事ならクレームが来ない程度に頑張る程度で、それ以上のことは仕事には求めていないし、またその必要もないと思うのである。
人生の充実は、趣味の分野に譲ればいいと思う。余暇の充実ということである。
私もこの秋はけっこう忙しい。
コンサートに落語、それに初めてのディズニーランド訪問も予定している。
どれもこれも今から楽しみである。
仕事なんてワンパターンでつまらなくてもいいではないか。
必要最低限の職能意識だけもって、あとは人生を多いに楽しめばいいと思う。
そんな生き方だって、ありのはずだと思うのである。
もちろん、幸運にもそういうことを求められる環境にある人はおおいにそれらを求めて行けばいいと思うのだが。
しかし、たいていの人はそういう仕事には就けないのが現実であると思う。
私もそうであった。
かつて若いころは、文学者を目指していた。
退屈な日常などまっぴらだと思っていたからである。
逆になにかこう、毎日ヒリヒリするような刺激に満ちた日々を送りたいと考えていた。
そしてそれにはクリエイティブな仕事に就く以外に夢は達成されないという風に思い込んでいたのである。
しかし夢はかなわず、現在に至っている。
今では文学者になどなりたいとも思わないようになっているが。
なぜなら、若いころと違って、退屈でワンパターンな日常にこそ、かえって魅力を感じるようになったからである。
もちろん、すぐにそうなれたわけではなかった。
最初のころは自分の意に反して、就職をすることがいやでいやでたまらなかった。
ところが、そうして意に反するまま、いくつかの仕事をやめたり続けたりするうちに、次第次第に現在のような心境に至るようになった。
途中何度か、仕事をやめていた時期があったのだが、その時には「やることがない」ということが人間にとってどれほど苦痛であるかを感じるに十分な時間であったのを覚えている。
人間というのは何かしていないといけないように体がなっているのだと思う。
孔子は「博打でもいいから手を動かせ」と言ったそうである。
そこで改めて、雇用の重要性に思い至るようになった。
雇用とはお金儲けの意味だけではないのである。
「なにかしなければ日々しのげない」人間の基本的欲働を満たし、そのことにより社会全体の安定に寄与すると言う側面もあるのだと気づいた。
そして、また改めて働き口を見つけに出かけるのだが、今度はなかなかいいところが見つからない。
そこで気づいたことは、自分の要望を社会に求めて求職するよりも、社会的に必要とされている分野へこちら側が自分の希望をあわせて求職すれば割とすんなりと職に就けるという事実であった。
この時初めて、社会的分業の意味が体で理解できたのであった。
そして現在にいたるのだが、今の仕事は製造業である。
工業は昨日の製品と今日の製品が基本的にまったく同じであることが求められる職種である。
だからけっこうワンパターンの日常である。
ただワンパターンとは言っても、仕事自体はやすりがけの仕事なのだが、それなりに奥の深い部分もある。
ものによってやすりの磨り方が違うからである。
だからある程度の経験と知識は必要になってくる、それなりに難しい仕事でもある。
で、改めて思うのだが、仕事は必要最低限、私の今の仕事ならクレームが来ない程度に頑張る程度で、それ以上のことは仕事には求めていないし、またその必要もないと思うのである。
人生の充実は、趣味の分野に譲ればいいと思う。余暇の充実ということである。
私もこの秋はけっこう忙しい。
コンサートに落語、それに初めてのディズニーランド訪問も予定している。
どれもこれも今から楽しみである。
仕事なんてワンパターンでつまらなくてもいいではないか。
必要最低限の職能意識だけもって、あとは人生を多いに楽しめばいいと思う。
そんな生き方だって、ありのはずだと思うのである。