Hey Judo(柔道)!!
Hey Judo, don’t make it bad.Take a sad song and make it better.Remember to let her into your heart,Then you can start to make it better.Hey Judo, don’t be afraid.パリ五輪が無事終了した。まあ、まだパラリンピックは残っているが。で、今日はそんなオリンピック種目の一つである柔道競技について思うところを少し。まずは、日本中が悲嘆にくれた阿部詩ちゃんの号泣騒動について。個人的にはあれはだいぶまずかったなと。というのも、柔道とはそもそも目先の勝ち負けより、それを通して磨かれる人間精神の発育を競うものだからである。例えば、もののふが戦に負けて切腹やむなしという時、ピーピー泣いて「ワシゃ腹など切りとうない」と延々ダダをこねるのを見たことがありますでしょうか。まあ、歴史的な事なので私もはっきりとこの目で見たとは言えないんですけど(そもそもその時代に生きてなどいないですもんね)。でもまあ知る限りではそういうのはあまり聞いたことがない。厳しいことを言うようだけれど、今回の阿部詩ちゃんの場合、それに近い行為だと思う。それにあそこであれだけ泣くというのは、柔道本来の勝ち負けを通しての人格陶冶ということより、暗に悪しき勝利至上主義に毒されてしまっていることを自ら暴露するようなものでもあると思う。だってあの涙は金メダルじゃなきゃ意味がないという涙でもあるわけでしょ。柔道本来の人格陶冶を主眼に置いている人なら、もっと違った対応が出来たはず。人間、勝った時に調子よくペラペラしゃべるのは誰にでもできること。問題は負けた時で。その時にこそ、その人の本当の人間性というのが出てしまう。その意味で、阿部詩ちゃんのあの大仰な涙は失格だったんじゃないかと。その点、立派だったのはブレイキンの半井重幸君で。優勝候補と目されながら、また立派な演技をしていたにも関わらず全く評価されないというシビアな判定に晒されながらも、メダルに手が届かなくても文句一つ言わず、直後にはあの立派なコメント。うーむ、しびれるぜ。男だな、シゲキックス。オリンピック直前にNHKのドキュメントで半井君に密着した番組を拝見したのだが、実に立派な若者であった。知事さんか何かを表敬訪問する時は、わざわざスーツを着用してピアスなんかも外して出かけるという。イマドキの若者としては珍しいほど、礼節を重んじている。そして好きな競技に対するストイックなまでの練習と追求。夢に向かって全力で突っ走っていく素晴らしさ。何かというと熱く夢中になれるものをバカにしたり、地道な努力を毛嫌いしたりという今の若い人達にも見習ってもらいたいそんな素晴らしく熱いものを腹の中にしっかりと持っている人。今大会で一番チャラい(と思われている)競技のそんな第一人者に、今の日本人に一番欠けている「もののふの心」を見た思いがしたのは私だけだろうか。話を再び柔道に戻すと。軽量級の男子選手で判定に不服として長時間、畳の上を去らなかった人がいたが、あれも見苦しいと思う。審判も人間である、まずはそれが一つ。もう一つは、その審判も自らの技術の向上を日々探求し、その道のプロとして誇りを以て試合に挑んでいる人達であるということ。そのような審判に対する敬意というのが全く感じられない。だから、ああいうのは止めた方がいい。周りがとやかく言うのは仕方ないとして、しかし少なくとも本人は判定が出たらさっさと畳の上から下りてくるべきかと思う。畳の上とは本来神聖な場所であるはずである。それを汚すような行為はやめといた方がいい。あれも悪しき勝利至上主義の現れかと思う。近代柔道の創始者、嘉納治五郎先生は柔道を通して人格を磨くことを道の第一の主題に掲げられた。しかし今の柔道はその精神を見失っている。やれ、世界の柔道がなんだとかいって古い日本の柔道のその本当の素晴らしさを二束三文の価値に貶め、精神の貧困を理由に売り払おうとしてしまっている。だが、ちょっと待ってくれ。それ、本当に売り飛ばしていいんですか。私は、間違っているのは古き良き日本の柔道の方ではなくて、今の柔道界を席巻している「世界の柔道」の方だと思う。例えば、今の柔道で主流の受け身をちゃんと取らないというのも大いに問題だと思う。背中からきちんと落ちる受け身を取ると「一本負け」に繋がるからという理由で主に海外選手を中心に、変則的な受け身が横行している。やはり試合制度というのを設けることで柔道本来の「道」が損なわれているという側面が出てきてしまっているのではなかろうか。筆者は合気道をやっているのだが、合気道には試合がない。だから柔道などを見ていると合気道に試合がなくて本当に良かったと思うこともしばしばである。その合気道では、受け身は「技」の一つと教わった。どういうことか。技を受けて受け身を取ると(合気道の受け身は回転系の受け身が多い)、相手の攻撃を巧みに吸収して自分の身体へのダメージを最小限に抑えることができる。そして回転系の受け身なら、そのまま一回転してすぐに立ち上がれるから、次の動作に入ることができる。相手が強すぎるなら、そこから逃げるという選択肢も取れるし、また再び立ち向かっていくという選択肢も取れる。つまり一回技を受けて受け身を取ってそこでハイ、終わりではないのだ。正しい受け身を取っていれば、闘いはどこまでも続いていかせることができるのである。そういう意味において「受け身は技の一つ」という訳である。これは柔道の場合でも同じではなかろうか。もう一つ付け加えれば、正しい受け身とは自分自身を助けるだけでなく相手をも助けるものだということ。正しい受け身で自分自身がケガを免れる、これは皆さんもお分かりになるかと思う。では相手が助かるとは。例えば、自分自身がもし正しい受け身を取らず、後頭部から落ち込んで行って不幸にも死亡するようなことがあったら、相手には殺人罪が成立してしまう。そこまで行かずとも、大ケガの場合なら致傷罪。しかし、正しい受け身のおかげで元気なままだと暴行罪程度で済むだろう。つまり、正しい受け身とは相手をも救う行為なのである。そのような受け身の大事さを、歪んだ勝利至上主義の観点から台無しにしようとしているのが昨今の柔道界である。やはりこれが試合制度のある「スポーツ」の限界なのか。しかし柔道とは、その字を読んでもらうとお分かりになる通り、単なるスポーツではない「道」である。近代柔道の創始者、嘉納治五郎先生も「受け身の大切さ」をまず第一に強調しておられたと思うのだが。正しい受け身、まずはそこから、その真摯な回復が望まれる昨今かと思う。今大会では他にも海外選手の間で、勝った選手に腹いせから試合後に蹴りを入れたりだとか、プロレスのように派手な煽りをやる選手とか、とにかく今、世界の柔道の風紀は乱れに乱れている。勝った選手の試合後のガッツポーズも当たり前になっているし (阿部一二三君もやってましたね)。剣道などでは勝った選手がガッツポーズなどをすると勝利が取り消されるそうだが。神聖なはずの畳の上が今大会ほど汚されていたことはなかったのではないか。このように事態が困難の度を極め、乱が最高潮に達した時には改めて原点に返ることが大切かと思う。柔道の原点、それは何か。目先の勝ち負けを通じて、そこから奥深く至ることの出来る人格陶冶。邪悪な勝利至上主義を脱するための美しい礼節。正しい受け身から始まる自分と相手との護身の術。心技体、この三つが揃った人間精神の限りない向上に資する永遠の「道」。今、この古き良き日本の柔道を取り戻すべき時なのではなかろうか。前途多難な難しい道ではありましょうが、この道を取り戻す以外に柔道の未来はないでしょう。このまま、乱れに乱れて自滅するか、本来の道の精神を取り戻すか。柔道の未来はまさに今、分岐点にあろうかと思う。志のある皆さんと共に、一灯照隅の心で進んで参りたいものであります。本日も最後まで読んで下さりありがとうございました。