<ホギュン役 リュソンリョン>
 
第6章 朝鮮の人物-35 近世19
許筠ホギュン
 
 
 
 
 
前回も述べましたがホギュンの欄を準備して、その記述の難しさにかなりの手間を取りました。
先の光海君同様振り幅が大きいせいです。
果たしてどう言う人物と括れるのか?
 
彼の名を聞いて直ぐにピンと来る人はわが国の歴史ツウだと言えますが文学的にはかなり有名で、言わずもがな我が国で知らない者が居ない「朝鮮初の国文小説」「ホンギルドン洪吉童伝」の著者です。
本人自身の生涯よりも彼の著作で初のウリクル(ハングル)小説との呼び声も高い彼の著書がより有名なのです。
 
奇想天外な小説の作者で有名な彼ですが、人生もまた奇想天外です(笑)。
先の光海君と因縁が有り、映画「王になった男」イビョンホン演じる光海君を陰で操って居たスンジョンウォン承政院トスンジ都丞知が彼で、映画ではリュスンリョン演じました。
彼を論じようとする時、以下の命題が浮かびます。
 
革命家か?はたまた破壊者か?
 
今も評価の定まらない破天荒な怪人物で有る彼を今回は論じたいと思います。
以前Facebookの「歴史を知る会」でもリクエストの有った人物です。
お時間有ればお付き合い下さい。
 

 

ホギュンの家系は一言でセレブと言え、省略しますが有名人物が多いです。
身近では実姉がホランソルホン許蘭雪軒で、我が国を代表する女流詩人です。
余談ですが、近年彼女の作品と言われている詩の中に贋作(つまりは盗作や偽作)疑惑が持ち上がって居るそうで残念な限りです。
真実が1日も早く解明されます様に。
 
彼は1569年生まれ、字(あざ)はタンボ端甫、号はキョサン蛟山・ハクサン鶴山・ソンソ惺所・ベクウォル白月居士と多く持って居ます。
 
父はソギョンドク徐敬德の文人として学者として名前が高かった同知中樞府事ホヨプ曄、母は江陵金氏です。
文章で名前高かったホボン許篈先程述べたホランソルホン許蘭雪軒と兄姉弟の末っ子です。
 
<ホランソルホン>
 
ホギュン許筠は5歳の時から文章を習い始め、9歳で詩を詠みました。
1580年(宣祖13)12歳の時に父を失いましたが、学問を柳成龍から学んで居ます。
 
詩は三唐詩人の1人李達に学びましたが、人生観や文学観など多くの影響を貰いました。
一説によれば李達は庶子出身で、彼が庶子差別撤廃思想を持つのに多大な影響を与えたと言います。
彼は生涯を通じて庶子出身者と交友が厚く彼らの差別撤廃運動とも深い関わりを持ちました。
彼のこの様な思想が著書 
「ホンギルドン洪吉童伝」などにも色濃く反映されて居ると言えそうです。
 
 
ホギュンは26歳の時科挙の庭試文科に乙(2番)で合格しました。
そして29歳で科挙重試の壮元(首席)を取って居ます。
 
翌年に黄海道都使の任を受け赴任しましたが、ソウルのキーセン妓生を引き連れて現地に赴いたとして弾劾を受け赴任6ヶ月で職を剥奪されて居ます。
彼の人生全般に言える事ですが、私生活が破天荒で人々の後ろ指を指される事を躊躇(ためら)う事無く行う人物だったのでかなり誤解や敵を作ったと見えます。
 
その後春秋館記注官・刑曹正郎・司藝・司僕寺正などを務め、明の使臣を迎える李廷龜の従事官として活躍しました。
 
しかし1604年(宣祖37)スアン遂安郡守に赴任するも仏教に傾倒し弾劾を受けます。
ご存知の通り朝鮮王朝では仏教は抑圧の対象で有り、士大夫が仏教に帰依する事は国禁を犯す重罪とみなしました。
地方の郡守がそれを公然と行うとは由々しき事態に他なりません。
 
 
再び仕官を退いた彼は1606年に明の使臣チュジボン朱之蕃を受け入れる従事官になり、広い学識と文才で名を轟かせました。
 
ホランソルホンの詩をチュジボンに示し中国で出版するきっかけを作り、この功労により官職を得ますがその後も仏像を祀って居ると弾劾を受けて職を追放されて居ます。
 
彼の人生は毀誉褒貶(きよほうへん)が激しいのが特徴です。
 
その後も公州牧使に登用されるも剥奪、1609年(光海君1)に明の使臣が来た時に李尙毅の従事官になり僉知中樞府事などに任命されますが、1610年(光海君2)に自己の主管した科挙試験で自己の甥と婿を不正に合格させたと言う罪で弾劾を受け全羅道ハムヨル咸悅に流刑されました。
 
 
その後数年間はテイン泰仁に隠居しましたが、1613年(光海君5)癸丑獄事の時に普段親交があった庶人出身の徐羊甲・沈友英が処刑されると身辺の安全を図るためリイチョム李爾瞻に接近して彼の傘下の大北派に参加しました。
 
1614年と翌年には千秋使・冬至兼陳奏副使として中国に行き多くの明の学者と交流、帰国しましたが「太平廣記」など多くの書籍を持ち帰りました。
その中にはカトリックの教書と地図が混ざって居たと言います。
彼がカトリックに入信したとは思えませんが、朝鮮にカトリックを持ち込んだ初めての人物と見る事が出来ます。
 
 
ホギュンは1617年(光海君9年)左賛参になりました。
時折しも光海君の粛正の嵐が吹き荒れ、光海君の継母の太王妃の処置で揺れましたが、彼は継母を廃して庶人とすべしと主張、それに反対した領議政キジャホン奇自獻との間に葛藤が生まれました。
 
彼の主張により奇自獻は吉州に流刑となりましたが、その息子キジュンギョク奇俊格はその件で彼を恨み、父を救うためにホギュンの罪状を暴露する上訴を上げます。
奇俊格はホギュンの弟子として学問を習っており、平素から彼の過激な言動を目の当たりにして居たので、その告発は彼を窮地に追い込むのに充分でした。
 
 
そんな中1618年(光海君10)8月、南大門に檄文が貼られる事件が起きます。
ホギュンの腹心ヒョンウンミン玄應旻が付けたのがばれ、ホギュンは彼の仲間たちと一緒に有無を言わせず捕えられました。
一方、普段の彼の過激な言動を快く思わないリイチョム李爾瞻はこの機会にトカゲの尻尾切りを画策、彼は審問の機会も与えられないまま、反逆罪として凌遅刑に処されました。
 
凌遅刑とは一言で八つ裂きの刑で、賜薬と正反対に重罪人へ下される1番屈辱的な刑です。
彼ばかりで無く息子たちも全て処刑、父親の墓は掘り起こされ切り刻む刑にされるなど、彼の家門は断絶の憂き目に遭いました。
 
現在では彼が本当に革命を起こそうとしたと言う確証も無く、軽率で不注意な普段の言動を利用されただけだと言う説が大勢です。
 
<ドラマ 星から来たあなたより>
 
前述の通り、ホギュンは我が国初の国文小説である「洪吉童伝」を作った作家として有名です。
彼の生涯と彼の理論「ホミン豪民論」に示された思想がホンギルドンになったと見られます。
彼はその著書で民本思想・国防政策、身分階級の打破と人材登用、朋党排斥の理論を展開しました。
 
内政改革を主張した彼の理論は純粋な儒教思想に基づいた物で、民の福利増進を政治の最終目標とすべきという事です。
 
ホギュンは儒家に生まれ儒学を勉強した儒家ですが、当時の異端だった仏教・道教に深く心酔しました。
 
特に仏教については一時出家しようと考えた事も有り、先にも述べた様に司憲府の弾劾を受けて官位を剥奪されて居ますが、改めようとはしませんでした。
 
 
キリスト教についてはホギュン自身の西学(キリスト教)への言及は有りませんが、中国に行ってカトリックの図書を持ち帰った後、天を祀る学問に関心を持ったと言う記録も有り、彼の思想に少なからず影響を与えた事に違いは無さそうです。
 
この様に、彼の政治的な言動は決して褒められる物では有りませんが、異端とされる様な新しい文物と学問の理論に格別な関心を持ち、類い稀(まれ)な文才を駆使して大きな才能を発揮した革命児と言えそうです。
 
当時の両班社会から異端視される程に多文化への理解を持ち、偏狭な視点から脱して迫害される下層民の立場から政治と学問の立場を表明した、正しく「時代の先覚者」だったと言えます。
 
<ホンギルドン洪吉童伝>
 
この様にホギュンは聡明で英邁(えいまい)、文章や知見に於いて賞賛に値すると言う評価を受ける一方、その人となりに於いて軽薄で人倫道徳を乱し、異端を好み行いが卑しいなど否定的評価も多く、評価は相反します。
 
いずれにせよホギュンが残した彼の文集「ソンソプブゴ惺所覆瓿藁」小説「ホンギルドン洪吉童伝」と共に朝鮮王朝中期に於ける我が国の思想史に燦然と輝く光を今も我々に投げ掛けてくれると言えます。
 
ドラマ・映画でも多く描かれ存在感を放って居ます。
先に挙げた映画「王になった男」では王を操る策士としての顔や少々間の抜けた姿が彼を象徴して居ました。
 
ドラマ「ファジョン華政」ではアンネサンが演じ、彼の一代記を上手くドラマに取り入れて居ます。
 
他にも「星から来たあなた」「王の顔」「ホギュン」など彼や彼の周囲を描いた作品は多いので、チェックして見ては如何でしょうか?
 
<ドラマ星から来たあなた>
 
<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
朝鮮名人伝
 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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