第11章  私の自分史
私の自分史1 私が存在するキッカケ
 
 
 
 
今日も歴史ネタが見当たらないので、私的歴史ネタを。
ネタが無いなら書かなければ?とお思いでしょうが、毎日のルーティンになってしまって居るので、ワンちゃんが1日散歩をしないと病気になってしまい、ひいては足がなまってストレスで死んでしまう様に、何かを書かずには居ても立っても居られない性分なのです。
元々大学の頃から毎日日記を書き、ミックスツインズが生まれてからは10年以上育児ブログを書いたので、書く事は何の苦でも有りません。却って大好きです。

 

 

文章を書くと言う行為はある種の排泄行為なので、精神的に救済されます(笑)。
本当に新聞や雑誌の記者を目指すんだったと今になって思う事、甚だ然りです。
 
さて、今回から私のルーツを語って行きたいとも思います。
平凡で、チョット人から外れた人生の一端、退屈でしょうがお付き合い下さる方よろしければご覧下さい。

 

 

まず、このブログを詳しく読んで下さる方はお気付でしょうが、我が家は多分に漏れず貧乏でした。
仕事が無く共和国に帰る為に東京に上京、色んなタイミングが合わず朝鮮人集住地区に居着いてしまった我が家は親戚が皆南北朝鮮に分散して我が家だけぽつんと残された典型的な「南・北・日 離散家族」です。
親戚も居ない孤独な幼少期を過ごしました。

 

 

アボジ(父)も職人気質(カタギ)でエンジニアの職を手にしましたが、1974年のオイルショックで失業、それ以降仕事が無い事多く、オモニ(母)が朝から晩まで遠く池袋の焼肉屋に雇われて働き、家を養って来ました。
当然家の中はメチャクチャ。
 
4人兄弟の姉などはお金がないので年齢を偽って中学3年生の頃からスーパーマーケットや魚屋、パン屋さんなどアルバイトに勤しんで居ました。
余談ですが、いまでもサンジェルマンのパンを見ると、上の姉が仕事帰りに貰って来た売れ残りのパンを思い出します。
長女の姉は家族思いで、いつも店で何か残ったら恥も外聞も無く、嵩張る荷物をお土産で持ち帰って来てくれました。
いつも食べられない高価なパンやお菓子など、姉のお土産が楽しみでした。

 

 

そのDNAを引き継いだのか、私もチョットした残り物が出ても家に持ち帰るクセが身に着いてしまいました(笑)。
 
親は当然、子どもをほったらかしだったので、3・3・2と歳の離れた4人兄弟皆、放任主義でバラバラに好き勝手に過ごしました。
今と違い、子どもにお金や教育を掛ける余裕の無い時代です。
こんな事を言うと家内にも驚かれますが、結婚まで私は生まれてこの片、家族に誕生日を祝って貰った事も有りません。
私以外の兄弟も当然。
 
いつも自分の誕生日は親にお金をせびり、2000円を貰ってはヤマザキの生クリームのホールケーキを買いに行き、ひとりで食べてました。
他の兄弟は自分の誕生日に興味が無いので、そもそもケーキも買いません(笑)。
ケーキを食べるのは私の誕生日とクリスマスだけです。
それも私が試験勉強で忙しく、忘れてしまって居たら時効を迎えます(笑)。
丁度誕生日が学期末試験シーズンなので良く忘れました(笑)。
 

 

私は家庭では突然変異の様な存在で、幼い頃から別に勉強が好きでは無いけれど勉強する事が当たり前に育ったので勉強をしましたが、上の3人は勉強が嫌いで、特に勉強もせずに「落第」の成績を貰って育ちました。
小さい頃から親にうるさく勉強しろと言われた事も有りません。
試験期間でも兄姉は勉強せず、私ひとり離れた部屋で寒さを堪えながら勉強して居ました。
と言っても試験シーズンでも勉強時間は2時間程度です。
目標は「チェウドゥン最優等」(:10点満点の9〜10点)なので普段は一切勉強せず、試験期間の2週間だけ2時間程度勉強すれば、軽く「チェウドゥン最優等」が取れました。
なのでガリ勉の経験も無く、初めて3時間以上勉強したのは「朝鮮大学校」生、大学生になってからです。
 

 

小さい頃から通信簿で良い点数を貰っても別段褒められた事も有りません。
逆に兄弟から「ソンホの成績簿は9点10点ばかりで、他の点数が無いから眼の保養にならなくてつまらない。」とバカにされて居ました。

 

家はボロい一軒家、3DKでひとり部屋など有りません。
4人兄弟が6畳の1部屋で布団を2つ敷いて2人ずつ寝て居ました。
家族・家庭の事を書けばキリが有りませんが省略します。
いずれにせよ唯一、私だけ突然変異で勉強好き、クソ真面目、「真っ赤」と来て、今の様になりました。
 
小学・中学と学生会、ウリハッキョで言う所の「朝鮮少年団」の活動が好きで一所懸命でした。
未だに思想が「赤い」と言われますが、多分それは元々オモニが女性同盟の役員をして居た影響です。
小さい頃はオモニに連れられて色んな大会や講習会などに同行しました。

 

 

オモニは女性同盟の非専任分会長で、総連支部の仕事を活発にして居ました。
ウリハッキョに通ったのは『朝鮮学校閉鎖令』が発布される前の2年間のみ、学校にもロクに通わせてもらえず中学校中退、男尊女卑の1世の親に「穀潰(ゴクツブ)し」だと罵られて育ち、親の命令で17歳で口減らしとして強制的に結婚、18歳で子どもを産み4人の子持ち、末っ子の私で25歳の時に産んだ子供。
青春も無かったオモニの初めての青春だったのでしょう。
総連の仕事を生き生きとして居ました。
私もオモニに連れられてデモ行進にも参加。
珍しかったのか、日比谷公園で『写真を撮らせて』とせがまれた事も有ります。

 

<共和国の舞踊 祖国のチンダルレ>

 

特にウチのオモニは今でも自慢ですが、朝鮮総連、女性同盟の朝鮮舞踊のサークルに参加して居て、プリマドンナで東京中を鳴らしました。
 
今では見る影も有りませんが、1970年代は朝鮮総連が全盛期で、様々な活動で賑わって居たのです。
朝鮮人集住地区だった我が家の近くに有る「総連分会事務所」は広くて、365日、24時間、街の同胞のサロンの機能を果たして居ました。

 

 

いつもカギが開いて居てトンポ(同胞)たちで賑わって居ました。
私たちも放課後になると自然と分会事務所を拠点に遊びました。
オモニたちが朝鮮舞踊の練習をする隣りで三々五々遊ぶ訳です。
横目でオモニの颯爽とした踊りをチラチラ見るのが好きでした。
 
丁度1972年は金正日キムジョンイルの偶像化の一環で、金日成キムイルソンの妻の金正淑キムジョンスクを全面にクローズアップした『祖国のチンダルレ(ツツジ)』の舞踊が日本に普及されましたが、そのプログラムが私の住む「中央・江東」支部に白羽の矢が当たり、母親がヒロインを務めました。

 

 

この踊りはキムジョンスク役の軍服姿のヒロインが、ピンク色のチンダルレを手に同じくピンクのチョゴリを着たバック集団のオモニたちの中で、祖国に凱旋した想いを踊るプログラムです。
 
このプログラムで「中央・江東」支部は女性同盟の舞踊大会で全国1位を獲得し、私のオモニは当時のハンドクス議長より直々に表彰を受けました。
そして、終いには芸術に造詣が深く、厳しいと有名だったハンドクス議長がオモニを気に入り、
「あのオモニを押し立てなさい」とのツルのひと声で、ライバルだった大きな支部、荒川・台東・足立・板橋の名だたる支部のオモニたちをバックに従えて、中小支部出身のウチのオモニが上記のプログラムのヒロインで全国規模の「大音楽舞踊叙事詩」の公演で踊る事になったのです。

 

 

広い朝鮮文化会館の大舞台で踊るオモニが私の自慢でした。
朝鮮総連をご存知無い日本の方には理解して頂けないでしょうが、当時その様な大会で主人公役を務める事はこの上無い栄誉だったのです。
生憎、上記のアボジの事情でオモニも女性同盟の非専任活動を続ける余裕も無く、朝から晩まで家庭を省みず働き始めました。

 

 

そんなこんなで、私は幼い頃から朝鮮総連の活動が好きで、いつかオモニの様に活動したいと思って居ました。
今考えると変わった子です。
上の兄弟3人は全く思想が別です。
 
ウリハッキョ(朝鮮学校)は本国のシステム同様、小学4年生から「朝鮮少年団」に入団し集団生活を送ります。
今は大分普通の生徒会に近くなりましたが、実際には「社会主義・共産主義 学生活動」を行う訳です。
 
私は「少年団」活動が好きで頑張りました。この間の様々なエピソードもほぼ覚えて居ますが長くなり過ぎなので省略します。
 
その中で今でも忘れられないのが、中学3年生の時に『模範少年団員모범소년단원』をもらった時のエピソードです。
朝鮮高校に入学手続きを取る中で、以前我が家を建て直した時に飾って居たキムイルソンの「肖像画」をなくしてしまい、それ以来「肖像画」を飾って居なかったのですが、ある日担任の先生に呼ばれました。

 

 

先生曰く「朝高に入学する上で家に肖像画が無いので、今から校長先生と総連本部に行く。」との事。
 
バカ正直な私は心の中で(アボジ・オモニのバカ!おかげで怒られるじゃないか。もし朝高(チョーゴ朝鮮高校)に入学出来なかったらどうするの?)とショックを受けました。
 
校長先生と東京本部への電車に乗る間も憂鬱で、どうしようとお先真っ暗でした。
本部の会議室に行くと、他の学校の学生がチラホラ居ます。
(この子たちも「肖像画」が無くて呼ばれたのか、可哀想に。
さてどう言う風に呼ばれるんだろう?)と思い、校長先生に
『肖像画の件、どうやって呼ばれるんですか?ここに居る人たちと順番で呼ばれるんですか?』と尋ねました。

 

 

すると校長先生は何の事か分からないと言った感で『何の事だ?今日は模範少年団員の表彰式だよ。
ウチの学校でソンホトンムが受賞するんだよ。』とおっしゃいました。
それを聞いてもっとビックリ❗️
私が何とあの『模範少年団員모범소년단원』を貰うなんて⁉️
寝耳に水以上です。
この賞は当時、少年団員に取って最高の栄誉で、おいそれと貰える賞では無かったのです。
我が校でも、同級生でそれまで2人しか受賞しておらず、私なんて雲の上以上の存在だったのです。
 
まんまと担任の先生に嵌められた訳ですが、当分笑いが止まりませんでした。
 

 

今も実家の居間の額縁に掛かっているこの『模範少年団員모범소년단원』の表彰状は、今でも私の心の宝物ですが、この受賞式の日、(これから朝鮮総連(少年団やチョチョン:朝鮮青年同盟)の活動を頑張ってやる!)と堅く決意を決めました。
 
そして中学卒業するに当たり、少年団指導員の先生が今まで『模範少年団員모범소년단원』を貰った同級生3人を集め、
『今回朝高に3人を熱誠者候補として推薦した。
高校に入学したら朝高委員会で我が校の代表として活躍する様に』
と懇々とおっしゃった言葉が今も瞼に浮かびますが、大事な任務を任せられて、頑張る決意を新たにしました。
その意味で、今の私が存在するルーツはこの日の『模範少年団員모범소년단원』受賞だと言えます。
 
次回高校生活以降について述べたいと思います。
 
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