ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
271. 洪国栄と勢道政治
 
 
 
以前、人物篇で正祖とホングクヨン洪国栄については記事を書きましたが、ドラマ『赤い袖先クットン』でもホングクヨン洪国栄がやはり影の主人公と見間違う程の存在感を放って居ます。
ちなみにこのドラマに出て来る「ホントクロ」と言う名前は字(チャ:あざ名)で、一種あの頃のニックネームの様な名前です。

 

 

実際に政敵の多かったチョンジョ正祖が王位に無事就ける事が出来たのもホン・グクヨンの存在無しには考えられず、即位後も序盤の政局は正祖の「代理人」たる位置にあった彼の役割が無ければ説明が出来ません。

 

 

朝廷の全ての政治が彼の頭から出て、彼の口と手を経て執行されました。
そうした彼が全ての権力を手放して政界から引退した時、年齢はわずか32歳でした。
若干32歳で朝鮮の政界を左右した彼ホン・グクヨンが手にした権力を思う時、何故この年齢で彼はこれ程の権力を手にし、そしてその真っ最中に権力の頂点から滑り落ちる羽目に至ったのかを考えずに居られません。
 
今回はこのホン・グクヨン洪国栄と、彼から始まった『セード勢道政治』について見てみましょう。

 

 

ドラマでも描かれますが、ホン・グクヨン洪国栄の外見は俊秀でハンサム、気が速くて俊敏。 秀麗な外見を持った上に利口だった彼は、詩や歌も上手で弁舌も良い「八方美人・オールラウンド」スタイルだったそうです。
幼年時代から学問よりは無頼輩たちと交わってお酒を飲んで将棋を指すのを好みました。
特に詩調シジョが得意だったと言います。

 

 

彼は正祖の母親で有る豊山ホン氏一族のヘギョングンホン恵敬宮洪氏の家とも緊密な関係で、正祖の外祖父として政界を掌握したホン・ボンハンや正祖とも遠縁の親戚の仲でした。

 

 

彼は正祖より4歳上ですが、1772年(英祖48年)に25歳で文科に合格し2年後の1774年、世子の教育を担当するサガンウォン侍講院ソルソ説書に任命され、以後チョンジョ正祖の心強い政治的後援者となりました。
正祖は即位した後、ホン・グクヨン洪国栄をスンジョンウォン承政院の最高位職であるトスンジ都承知に任命しました。
今で言えば大統領秘書室長に当たる重大な席です。

 

 

スンジョンウォン承政院は国王が下す全ての命令と指示を伝え、国王に報告される政事の処理や国王の諮問を担当する重要な機関です。
行政の処理だけでなく、人事、国防、教育など国政全般にわたって広範囲に関与する事が出来ました。
 
若干20代でこの地位を得た自体、チョンジョ正祖が彼をどれだけ信頼したか分かります。

 

 

正祖の信任はこれに終わらず、軍の5軍営の一つである禁衛営の禁衛大将に任命し、国王の護衛機関である『スクウィソ宿衛所』を創設してホングクヨン洪国営に委ねました。
彼の権勢は実に物凄い物でした。
 
チョンジョ正祖がホン・グクヨン洪国栄を寵愛した理由は何でしょうか?
幾つか挙げる事が出来ます。

 

 

❶彼は最高権力者の心を掴む事が上手でした。
正祖が彼に「外部の事情について尋ねない事がなく、伝えない言葉がない」と言われる程、正祖の心を捉(とら)えました。
東宮(セソン世孫)時代からチョンジョ正祖に民心の動向を伝えた彼は情勢判断も優れており、弁舌と手腕も良いと言う印象をシッカリと植え付けました。

 

 

❷彼は権力者が何を望んでいるのかを把握して実行に移しました。
強大な権力を握った彼は、セソン世孫時代に正祖チョンジョが受けた辛苦の「復讐」に乗り出しました。
英祖時代に正祖を苦しめたチョンフギョム鄭厚謙・キムキジュ金亀柱らを、正祖の即位を妨害したという罪名で流刑にするなど政治の第一線から追い出しました。

 

 

正祖の母方、ヘギョングン恵慶宮ホンシ洪氏の家も例外では無く、ホン・ボンハン洪鳳漢・ホン・インハン洪麟漢兄弟を攻撃して政界から引きずり下ろしました。
外戚の政治関与を排除したい物の、自分で乗り出すのが難しかったチョンジョ正祖の負担を和らげたのです。

 

 

❸彼は王位継承過程において功労を立てました。
正祖は「サドセジャ思悼世子の息子」という理由で多くの困難を経験し、王位継承を妨害する多くの策動に苦しみました。
この様な状況下でホン・グクヨン洪国栄はセソン世孫(正祖)を守るために最善を尽くし、チョンジョ正祖はこれらと「トンドクフェ同徳会」という私的な会合を持って、毎年集まりをする程に彼らを遇しました。

 

 

特に洪国栄ホン・グクヨンについては「前後左右が全て逆賊の群れを味方する者たちだけで有ったが、唯一ホン・グクヨンだけが身体と心を捧げて(チョンジョ正祖の)安寧を補佐した」と評価したほど特別に対しました。

 

 

正祖は王位に就いて「君が居て今日の余が居られた」とホン・グクヨンを褒め、「君が軍を率いて宮廷を侵犯する罪を犯さない限り、どんな事でも貴方の罪を問わない」とホン・グクニョンを信任しました。
そればかりか「ホン・グクヨンの意見に反対するのは正に私に反対する逆心だと思え」と宣言するほど、チョンジョはホン・グクヨンを極めて寵愛しました。
正祖初期の朝鮮王朝の実際の権力はホン・グクヨンが掌握して居たと言えるでしょう。

 

 

ホングクヨン洪国栄は青年時代から野心家で、天下の全てを自己の手中にする事を望みました。
彼は政務感覚が優れ、権力の時間を無駄にしませんでした。
 
地方儒生(山林)勢力を優遇して自分の支持基盤に作り、チョンジョ正祖に子どもがまだ居ないという点を勘案して自分の妹を後宮に入れ、王室と姻戚関係を結びました。

 

 

彼は政敵にもなり得る老論派勢力を掌握する為の作業にも着手しました。
即位したばかりの正祖を説得して『シニムウィリ辛壬義理』を改めて承認させたのが例です。
 
『辛壬義理』とは老論側がサドセジャ思悼世子の死に関与したのは党派的利益のためではなく朝廷の安定の為だったという一種の政治フレームです。

 

 

老論派は英祖が『辛壬義理』を守ったため、権力を持続する事が出来ましたが、思悼世子の息子で有るチョンジョ正祖が王位に就き、政治的に報復されるのでは戦々恐々して居ました。

 

 

所がチョンジョ正祖が『辛壬義理』を再度承認してくれたのですから、老論派の立場からするととてつも無いプレゼントに違い有りません。
 
この様な権謀術数(けんぼうじゅっすう)により洪国栄ホン・グクヨンは勢いを上げ、「ホン・グクヨンと別れては逆賊」と呼ばれる存在となったのです。
 
洪国栄ホン・グクヨンが権勢を振るったこの4年間を朝鮮王朝に於ける初の『セード勢道チョンチ政治』と呼びます。

 

 

『セード勢道政治』とは特定人物が、国王から政治権力の行使を委任されて権勢を振るう政治形態で、戚臣として王と密接な関係にある人物たちが全ての官職に任命され、外戚が人事行政にまで直接参加して権力の乱用を招く事態を招いた政治形態です。

 

 

洪国栄ホングクヨンから始まりましたが、正祖チョンジョ亡き後、金祖淳キムジョスンのアンドン安東金家一派などが跋扈(ばっこ)し、朝鮮王朝末期まで続きました。
朝鮮王朝を滅亡に追いやった1番の元凶と言われて居ます。

 

 

しかし、洪国栄ホングクヨンの勢道政治は長くは続きませんでした。
 
1779年正祖はホン・グクヨン洪国栄に入朝を命じ、面談を終えたホン・グクヨンはすぐに辞職の上訴を上げ、突然の政界引退を表明しました。

 

 

これは正祖チョンジョによる事実上の「罷免(クビ)」だったと見られます。
翌年チョンジョ正祖はホン・グクヨン洪国栄に「もう都には入れない」という命令を下し、この問題を終結させました。
辞職した後もソウルに留まり、政治的再起のタイミングを狙って居たホン・グクヨンは以後、江原道を漂いながら暴飲暴食と憤懣(ふんまん)で日々を過ごし33歳で生を終えました。

 

 

正祖はあれ程寵愛したホン・グクヨン洪国栄をなぜ放り出したのでしょうか。
 
父親サドセジャ思悼世子の悲劇的な最期を生々しく目撃したチョンジョ正祖は、「タンジェン党争」を終わらせ、国王の絶対的で超越的存在の下で各党派が競争・協力する政治体制を作ろうとしました。

 

 

しかしホン・グクヨンは、最大勢力である老論派を自分の統制下に置こうとし、老論派も「与党」として生き残る為にこれに協力する雰囲気が醸成されました。
チョンジョ正祖の立場としてはホン・グクヨンの一連の行為が自分の政治的ライバルを排除する為の物だと疑わざるを得ない状況になってしまった訳です。

 

 

政治権力基盤を確保する為に妹を正祖の後宮に付けたのも結局仇(あだ)になりました。
正妃のヒョイ孝義王后がいるのに一番と言う『元』の字をつけた「ウォンビン元嬪」と名付けて物議(ぶつぎ)を醸(かも)した彼はウォンビンが翌年死亡(1779年)すると毒殺の可能性を宮内に広め、孝義王后を陥れようとしました。

 

 

また、正祖の弟の長男を亡きウォンビン元嬪の養子にして、「ワンプングン完豊君」と名乗らせたのも問題になりました。
完は王室の全州氏の本貫(全州・完山州)を、豊はプンサン豊山洪氏の本貫を意味します。
王室で母方の本貫を爵号に付けたのは前例が有りませんでした。
更に、ホングクヨン支持勢力がワンプン完豊君を王世子に冊封しようと主張し出したのも正祖チョンジョを怒らせるのに充分だった事でしょう。

 

 

チョンジョはホン・グクヨンの死亡の知らせを聞いてこう振り返りました。
「ホン・グクヨンがこの様な罪に陥ったのは思慮が正しくないせいだ。
最初は国の安定と心配を共にする事において彼の地位が重くなければ威厳が立たなかったので「権柄(:地位と権力)」を臨時に委ねたのだ。
所が、自ら用心深く恐れて慎む方途を考えず、ひたすら寵愛だけを信じて「威福(:王の権力)」を勝手に使って終わらせる極罪を犯すことになったのだ。」(『正祖実録』正祖5年4月5日)

 

 

彼の在りし日の権勢は飛ぶ鳥を落とす程で、当時高官までも彼に盲従するあり様でした。
正祖の厚い信任に支えられ、朝廷百官はもちろん全国の監使や守領も彼の言葉にあえて異議を唱えられず、全ての役人が彼の命令を得なければ行動できないので「勢道」という言葉が生じました。

 

 

ホン・グクヨンは彼の政治的浮上と没落が劇的なので、ドラマに映画に多く描かれています。
私が初めて観たキムヨンチョル主演の史劇『ワンド王道』も彼を主人公にしたドラマですし、他にも彼をメインやサブ・メインに描いたドラマが多数制作されました。

 

 

正祖チョンジョドラマの決定版『イサン』でもハン・サンジンが演じ、彼のブレイクを決定的な物にしました。
上記のドラマ『赤い袖先クットン』でも自己の権力の為には人命をも軽々しく処断する冷酷非道な権力の化身として主人公トグィム(ドギム)に襲い掛かります。

 

 

権力の怖さを我々にまざまざと見せ付けてくれる稀有な存在だったと言えるでしょう。
 
 

 

 
<参考文献>
한국민족문화대사전
[유성운의 역사정치]'정조의 비서실장' 홍국영은 어떻게 몰락했나
정조의 복심에서 역적으로, 홍국영…권력은 방심을, 방심은 오만을, 오만은 파국을 부른다

 

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