<ドラマ 燦爛たる黎明の金玉均>

 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
267. 甲申政変カプシンチョンビョン❷
 
 
 
 
日本の幕末維新期の人物で坂本龍馬高杉晋作が好きです。
特に類に漏れず司馬遼太郎の影響か坂本龍馬が大好きです。
理由は多々有れど、究極の理由は朝鮮侵略の際にこの世に居なかったと言う面です。
要は結果論的な思考ですね。

 

<坂本龍馬>

 

日頃の言動から、龍馬が生きて居たら昨年大河ドラマで描かれた渋沢栄一の様に朝鮮への経済侵略の先鋒を担いでた可能性は大きく有ります。
しかし、その前に暗殺されたお陰でその様な暗い面は見ずに済んだ訳です。
明治維新後の彼の活躍を見る事が出来ないのは残念では有りますが、そう言った面で有難いです。

 

 

『甲申政変』でもキムオクキュン金玉均以外の、その後生き残った開花派人士は悉く親日派・親米派として祖国を外勢に売り渡す役割を担って行くので、尚更分が悪いと言えます。
 
金玉均キムオクキュンが生きて居たら同じ様に親日派に成り下がっただろうか考えあぐねますが、『甲申政変』の中心人物だった彼のその様な面を見ずに済んだ事だけが救いです。

 

 

それ以外にも現代から見て評価が肯定的・否定的な評価がマチマチな『甲申政変』ですが、前回の続きを述べたいと思います。
 
政権を奪取した開花派率いる新政府は急ぎ政治綱領を発表しました。
 
前回述べた様に、政治綱領(政綱)は12月5日夕方から12月6日夜明けまで徹夜で協議され、6日午前9時頃に国王の名において伝教として公布されました。

 

 

政綱の条項はかなり多く、80余りの条項に達したと言いますが、現在正確に伝えられているのはキム・オクキュン金玉均の『甲申日録カプシンイルロク』に収録されている次の14の条項のみです。
 
1 .大院君を近いうちに送り返す事、(清国に)朝貢する虚礼を廃止する事。
 
2 .門閥を廃止して人民平等の権利を制定し、人の能力で官職を選び、官職をして人を選ばない事。
 
3 .全国の地租法を改革して、奸悪な官吏たちを根絶し、民の困難を救い、併せて国家財政を豊富にする事。
 
4.内侍府(宦官制度)を廃止し、その中で才能のある者がいれば登用する事。

 

<ドラマ 朝鮮ガンマン>

 

5.その間国家に害毒を及ぼした貪官汚吏の中でひどい者は処罰する事。
 
6.各道の還上(還穀)制度は永久に廃止する事。
 
7. 奎章閣を廃止する事。

 

8.巡査制度を至急に実施して盗賊を防止する事。

 

 

9.恵商公局を廃止する事。
 
10.その間流刑、禁錮された人々を再び調査して釈放する事。
 
11.4営を合わせて1営を作り、営の中で長丁(若者)を選抜して近衛隊を至急に設置する事。
 
12.全ての国家財政は戸曹に管轄させ、その他の一切の財務官庁は廃止する事。

 

 

13.大臣と参賛は閤門内の議政所で毎日会議をして政事を決定した後、王に諮って政令を公布して政事を執行する事。
 
14.政府は六曹以外に不要な官庁に属する物はすべて廃止し、大臣と参賛を討議して処理する事。

 

<カプシンイルロク甲申日録>

 

甲申政変の革新政綱14か条は当時の開花派新政府の改革政治の意志と基本内容を集約的に公布したものだったと言えるでしょう。
 
詳しく説明するとこれだけで1コマ必要になるので省略しますが、一言で日本の様な「富国強兵」つまり資本主義制度を目指したと言えるでしょう。
また、国王の専制を制御し,立憲君主制を目指したと言えるでしょう。

 

 
しかし、彼ら開花派率いる革新政府の前には早くも暗雲が漂って来ました。
高宗がこれらの政治綱領を採決し、改革政治実施調書を下した12月6日午後3時には、清軍が1,500人の兵力を両部隊に分け、昌徳宮の敦化門と宣仁門にそれぞれ攻撃して入って来たのです。

 

 

これに対抗して外衛を担当した親軍営、前後営の朝鮮軍が勇敢に応戦しましたが、数十人の戦死者を出して敗退してしまいました。
 
次は中尉を担当した日本軍の番でしたが、彼らはきちんと戦闘もせずに撤兵してしまいました。
日本軍はそれ以前から撤兵を準備していたのです。

 

 

昌徳宮チャンドククンの広い敷地では、開花派の50人の人士と士官生徒で編成された内衛だけで正面から押し寄せる1,500人の清軍を対抗する事は到底叶いません。
 
こうして『カプシン甲申チョンビョン政変』は清軍の武力攻撃に敗れ、開花派の執権は「3日天下」に終わってしまいました。

 

 

キム・オクキュン、パク・ヨンヒョ、ソ・グァンボム、ソ・ジェピル·ピョンスなど9人は命からがら日本に亡命し、ホン・ヨンシク、パク・ヨンギョと士官生徒7人は高宗を護衛して残った後、無残に惨殺されました。
その後、国内に残った開花派は閔氏守旧派によって徹底的に捜索・逮捕され、根絶やしに会いました。

 

 

甲申政変は何故失敗したのでしょうか?
 
良く語られて居る様に、失敗の原因として幾つか指摘されて居ます。
 
❶清軍の不法な宮廷侵犯と、彼らの軍事的攻撃に抗う武力準備が出来なかった点。
ここには清国の武力攻撃を軽視した国際情勢の見通しの甘さも含まれます。
 
❷開化派の日本軍借兵の失策と日本軍の裏切り的撤兵を想定出来なかった点。
ここには日本に対する「期待」の甘さにも繋がります。
得てして我が国の改革勢力は日本の侵略意図を見抜けず、彼らに依存する立場が多く見られますが、その後彼らの多くが親日派に堕ちて行く事と無縁では無いと思われます。

 

 

❸開化政策を支持する社会階層としての市民層の未成熟と民衆の支持の欠如。
 
❹開化派の王妃と清軍の連絡に対する監視の甘さなど、国王コントロールの甘さやクーデター遂行の未熟、準備不足などです。

 

 

中でも3番の民衆の支持の欠如は深刻で、首都ソウルの民衆は彼らを、日本を背負った反民族政権だと認識し、彼らに反対行動を起こしました。
もし、1882年の壬午軍乱の際の様にソウル貧民達が彼らを支持して立ち上がり、清国に対抗して居たのならこのクーデターの成り行きは変わって居た事でしょう。
あくまで民衆に「外勢を率いれた宮廷クーデター」にしか映らなかった事がこの『甲申政変カプシンチョンビョン』の最大の悲劇で有り、「ブルジョワ(市民)革命」と命名する事が躊躇(ためら)われる最大の原因でも有ります。

 

 

そして、その後の朝鮮に多くの悪影響を及ぼしました。
❶それはまず、理由はどうあれ外勢を率いれた事で、「開花」=「外勢」の図式を植え付けてしまった面です。
その後、「開花」と言う言葉は朝鮮でアレルギーを持つ言葉として、およそ10年もの間、朝鮮の改革開花は遅れる事になりました。
 
❷また、クーデターの際に開花派が行った反対派に対する殺害、政変に参加した開花派人士に対する報復による根絶やしなどにより、その後の朝鮮を担う貴重な政治家を多数失い、その後の政局に於ける大きな損失となりました。

 

 

オマケを言えば、それまで朝鮮の開花を応援して居た福沢諭吉がアジア侵略を肯定した『脱亜論』を発表するのは『甲申政変』失敗以降の事です。

 
この様なマイナス面にも関わらず、『カプシン甲申チョンビョン政変』は近代朝鮮の改革運動に於いて大きな歴史的意義を持つと言えます。

 

 

❶それは、まずこの『甲申政変』が朝鮮で中世国家体制を清算し、「富国強兵」「近代国家」建設の為の初めての革命・改革だったからです。
朝鮮は決して内部から近代化を推し進める事無く滅んだのでは無く、開港から10年足らずでその域に達した事を意味します。
これは日本の明治維新と比べても遜色の無いタイムリーさだと言えましょう。
 
❷次に、朝鮮の近代史で開花運動の方向を示し、その後の見本となりました。
甲申政変が追求した「自主自強」「豊かな近代国家」「市民社会と資本主義経済」「近代文化と自主的近代国防」の建設はその後全ての開化運動、特に甲午改革に継承されました。

 

 

この様に「甲申政変」の持つ意味は決して軽く無く、我が国の近代史の中で重要な意味を持って居ると言えるでしょう。
ドラマでは「燦爛たる黎明」「朝鮮ガンマン」「ミョンソン明成ファンフ皇后」などに描かれて居ます。

 

 

 
<参考文献>
한국민족문화대사전
나무위키 
조선전사
 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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