<ドラマ 朝鮮ガンマン>

 

ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
266. カプシン甲申政変❶
 
 
 
 
ドラマ「朝鮮ガンマン」でいよいよクライマックス『甲申カプシン政変』が描かれました。
史実と多少違い、彼らは国王を脅してクーデターを進行しました。
つまり、国王への謀反と言う性格で始まり進展して行きます。
史実では国王を「欺き」はした物の「脅し」はして居ません。

 

 

『甲申政変』は私たちウリハッキョ出身者も馴染みが深く、小学生の頃に朝鮮初の「1884年ブルジョワ(市民)革命」と習ったので、失敗はした物の進歩的な「市民革命」のイメージが強いです。
 
共和国では1950年代に親日派による宮廷内クーデターから「ブルジョワ改革」へ、そして1970年代には「ブルジョワ革命」と評価が変わり、その後1980年代またもや「ブルジョワ改革」との評価に落ち着いて現在に至ります。

 

 

確かに武力は用いたにせよ「明治維新」「辛亥革命」に比べ「ブルジョワ(市民)革命」的な要素が希薄で、無理が有ると言えます。
我が国に市民革命が起こらなかったのは誠に残念では有りますが、市民革命を目指した自主的な改革が2度も起こったのですから、取り敢えず由とするほか有りません。

 

<ドラマ 燦爛たる黎明>

 

一方の韓国では唯物史観を採用しない為、共和国での様な議論は無い様です。
あくまでクーデター『甲申政変』と言う事で(笑)。
 
この様に、その他にも多くの議論は有りますが、我が国の近代史に於いて一大事件で有った『甲申政変』について今回は語りたいと思います。
以前、キム・オクキュン金玉均について人物篇で述ベましたので、併せてお読み頂けると幸いです。

 

<金玉均キムオクキュン>

 

金玉均の記事はコチラ
「甲申政変」を起こしたのはご存知の通り金玉均をはじめとする開化派ケファパです。
 
開花派は金玉均を中心に1870年前半頃から本格的に形成され始め、開港後勢力を増大させながら、しばしば富強近代国家建設のために様々な近代化改革を進めました。
彼らは開港後に展開された国内外の情勢の変化に関心を持ちながら同志を集める一方、改革運動を進める為、当時西欧の近代文物に関心を持って居た高宗に積極的に接近しました。
そうして朝鮮政府の日本修信使及び調査視察団に派遣され、近代文物の摂取に務めました。

 

 

しかし、1882年7月の壬午軍乱によって大きな障害にぶつかる事になります。
 
壬午軍乱が起きると閔氏守旧派は清国に救援を要請し、清国はこの機会に軍隊を派遣して壬午軍乱を「鎮圧」した後、朝鮮を実質的な属国とすべく画策しました。

 

 

清国は3,000人の軍隊を朝鮮に派遣・駐屯させ、執権者であり国王の父である大院君を清国軍艦に招待して軟禁、清国に拉致して幽閉しました。
清国は大院君政権を崩壊させた後、閔氏外戚政権を再び樹立させましたが軍隊を撤退ぜず、武力を背景に『宗主権』を主張しながら、朝鮮属邦化のために積極的に干渉を行い、朝鮮の自主独立権を大きく侵害しました。
 
朝鮮に駐留した清は兵権と財政権を掌握し、李鴻章が派遣したスパイ顧問メレンドルフ(Mӧllendorff, P.G.)を通じて海関だけでなく、外交権まで掌握しようとしました。

 

 

清国は壬午軍乱鎮圧直後の1882年8月28日、閔氏政権に圧力をかけ、最も不平等で多くの特権を許容する内容の「朝中商民水陸貿易章程」を締結させ、前文に朝鮮を清国の「属邦」と書き込みました。
また、清国は朝鮮政府に対して「凡て外交に関する一切を清国に問い合わせる事」と指示し、高宗を面前で脅迫するまでして居ます。
また、ソウルに駐留した清軍の悪行も激しい物でした。

 

 

清国は金玉均を中心とした開化派の開化政策と開化運動が究極的に清国からの朝鮮の独立を追求する物だと見て、私利私欲ばかりに明け暮れる閔氏政権を通じてあらゆる方法で開化党を弾圧し、開化運動を阻止しました。
その結果、キム・オクキュン金玉均など開化派の政治的地位は非常に危険な立場に置かれる事となりました。
 
ちょうど日本が300万円の政府借款を提供すると約束して来たので借款で改革を進めようとした彼らは、日本の裏切りにより借款が霧散すると政府内での立地が危うくなりました。

 

 

主導したキム・オクキュン金玉均は代わりに米国貿易商社を通じてアメリカに直接渡って資金を用意しようと試みましたが、それも失敗し、資金不足で開化派が推進していた様々な近代化政策が壁にぶつかる事にもなります。
この機を利用して反対派は彼らが心血を注いだ訓練院まで摂取してしまいました。 
 
この様な危機的状況に追い込まれた中で開化派は、清国の朝鮮に対する属邦化政策と、開化政策に対する弾圧に対して断固として武装クーデターの方法で対抗して国の独立と近代化を達成しようとしたのでした。

 

 

キム・オクキュンを中心とした開化派は清軍を追い出して国の完全独立を成し遂げるためにまず政権を掌握して「上からの大改革」を断行する事にし、1883年から武装クーデターを模索しながら準備を進めて行きました。
 
パクヨンヒョ朴泳孝は1883年3月に漢城判尹より広州留守に左遷されると、そこで約500人の男子を募集して新式軍隊を養成、他にも開花派は北靑地域の男子約500人を募集して新式軍隊として養成しました。

 

 

キム・オクキュン金玉均は日本に留学させたソ・ジェピル徐載弼など14人の士官生徒たちを1884年7月に召還し、クーデターの重要な指揮武力としました。
彼は政変を準備するために43人で構成された秘密武装組織『チュンイゲ忠義契』を作って準備を進めました。

 

 

1884年春から清国とフランスの間にベトナム問題を巡って戦争の兆しが濃くなると、清国は1884年5月23日頃ソウルに駐屯させた3,000人の清軍のうち1,500人をベトナム戦線に移動させ、1,500人の清軍だけが残る事になりました。

 

 

その後彼らに危機が迫り、清仏戦争で戦況が清国に不利に展開されると、金玉均ら開花派はクーデターを起こす時期が来たと判断し、『甲申政変』の断行を決定しました。
 
開化派の独自の計画のもとクーデターを断行する為の決定が下され、本格的な準備が進む時期にソウルに来た日本公使竹添は、開花派に積極的な好意を見せながら近づいて来ました。

 

 

これに対しキム・オクキュン金玉均など開化派は不足する武力を補充し、清軍を牽制する為の手段として日本側の好意に応じ、日本を「利用」する事にしました。
そして日本側から公使館兵力150人と借款17万円の援助を受けました。
日本軍には王宮護衛と清軍に対する防備だけを分担させ、国内内政改革にはもっぱら開化派が引き受ける事を日本側から同意を得ました。

 

 

<郵政総局>

 

開花派は遂に1884年12月4日(旧暦10月17日)、洪英植が総責任者であった郵政局落成式の祝宴をキッカケにクーデターを起こします。
 
当初、郵政局の隣の別宮に火を付けて反対派の高官を誘き寄せて処断する手筈でしたがしくじり、仕方無く近くの民家に火を付けました。

 

 

しかし、火事の知らせを聞いて外に出た高官のうち、ミン・ヨンイク閔泳翊が行動隊の剣に打たれて重傷を負い郵政局内の床に倒れ、怖れをなした高官たちが四方八方に散り、当初の計画は失敗しました。

 

 

ここに開化派は清国が反乱を起こしたと国王に虚偽の報告をし、まず国王と王后をチャンドククン昌徳宮から防御しやすいキョンウグン景祐宮に移しました。
そして、軍事指揮権を持つ守旧派大物で有る韓圭稷・尹泰俊・李祖淵などと閔氏守旧派の大物である閔台鎬・閔泳穆などを国王の名で呼び寄せて処断しました。そして開化派の裏切り者、宦官柳在賢も処断しました。

 

 

開化派は続いてすぐに新政府の樹立に着手しました。
最終的な新政府の閣僚は、領議政リジェウォン李載元、左議政ホン・ヨンシク洪永植、前後営使兼左捕将パク・ヨンヒョ朴泳孝、左右営事兼代理外務督辦及び右捕將ソ・グァンボム徐光範、礼曹判書キム・ユンシク金允植、戸曹参判キミ・オクキュン金玉均、兵曹参判兼正領官ソ・ジェピル徐在弼、パク・ヨンギョ朴泳敎などでした。

 

 

新政府閣僚の構成は開化派要員と大院君派の国王宗親の連立内閣になって居ました。
開化派としては、弱小な開花派新政府を補強する為には臨時的にでも宗親を重用せざるを得なかったと言えます。
しかし、重要ポストは開化派が独占し、
改革政策を推進する担保を確保しました。

 

 

開花派の新政府は12月5日に新しい改革政府が樹立された事を内外に公布しました。
と同時に、国王の名前でアメリカ公使·イギリス総領事·ドイツ領事など各国の外交官を招いて新政府の樹立と改革政治の実施を知らせました。

 

 

開花派のクーデターに驚いた清軍側は、12月5日開化派の支持者に偽装した沈相薰キョンウグン景祐宮に送り、明成皇后と連絡を取らせ、彼らの計画を伝える事に成功しました。
 
これで清軍の意図を知った王妃はキョンウグン景祐宮が狭くて不便だという言い訳をしてチャンドククン昌徳宮への還宮を積極的に主張し、国王もこれを支持します。

 

 

キム・オクキュン金玉均は昌徳宮は広すぎて、開化派の少数兵力で防御に極めて不利な点を挙げて反対の意思を明らかにしましたが、高宗の命に逆らう事が出来ず、キョンウグン景祐宮の隣のイ・ジェウォンの家であるケドングン桂洞宮に国王と王妃の居所を移しました。
ここはキョンウグン景祐宮より広めでしたが、開化派の少数兵力でもチャンドククン昌徳宮より防御が有利でした。

 

 

所が、王妃は引き続きチャンドククン昌徳宮への還宮を要求し、日本公使は日本軍の兵力なら清軍の攻撃も倒せると断言してこれを受け入れさせます。
結局12月5日午後5時、国王と王妃の住まいはチャンドククン昌徳宮に移されました。

 

 

国王の護衛は3重に行い、内衛は開花派の人士たち忠義契や士官生など約50人、中衛は日本軍約150人、外衛は朝鮮軍親軍営前後営兵約1,000人を3重に防衛させました。
しかし、チャンドククン昌徳宮は広すぎて、開化派は極めて不利な立地的条件で防御に臨む事になったのです。

 

 

クーデターを起こして新政府を樹立した開化派は、彼らの新しい改革政治の指針である革新の政治綱領を制定、公布しました。
甲申政変の革新政綱は12月5日の夕方、金玉均の主導のもとに左議政リ・ジェウォン、右議政ホン・ヨンシク、左右営事ソ・グァンボム、兵曹判書イ・ジェワン、左右領事パク・ヨンヒョ、戸曹参判キム・オクキュン、都承旨パク・ヨンギョなど新政府の主要な大臣たちが協議して決定、これをホン・ヨンシクが国王に上奏する方式でなされました。

 

 

12月5日夕方から12月6日夜明けまで食事も欠いたまま徹夜で協議されたこれらの綱領は、6日の午前9時頃に国王の伝敎として公布され、ソウル市内の要所に掲示されました。
また、この日の午後3時に高宗が改革政治を表明する詔書を下して公布した政治綱領の実施を宣言しました。

 

 

実に朝鮮に於ける初めての近代的改革政治綱領で、この綱領は改革派の成し遂げた画期的な成果だったと言えるでしょう。
 
これについて、その後の経緯は次回に述べたいと思います。
 

 

 

 

<参考文献>
한국민족문화대사전
나무위키 
조선전사 
 

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