<ドラマ チョリンワンフ>

 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
259. ピビョンサ備辺司
 
 
 
ドラマ「朝鮮ガンマン」を観て居たら1880年に創設した『統理機務衙門』について描いて居ました。
この機関について書こうと思いましたが、これを書く以前に朝鮮王朝後期の政治体制について書く必要性を感じたので、今回はまず朝鮮王朝後期に権勢を振るった『備辺司ピビョンサ』について述べたいと思います。

 

<備辺司ピビョンサ>

 

政治体制についてなので興味も理解度も低いと思われますが、適当にお読み下さい。
 
まず以前高麗王朝時代の政治体制と朝鮮王朝時代の政治体制を書きました。
 
高麗期の政治体制は『三省六部』で、中国唐・宋の制度を倣いました。
高麗の政治制度の特徴は一言で、貴族の合議制に近いと言う性質でした。
 
記事はコチラ

 

一方、朝鮮王朝期の政治体制は基本、『リュクチョチッケ六曹直啓육조직계』、又は『ウィジョンブソサジェ의정부서사제議政府署事制』と言われる制度です。
 
これは、高麗時代の6部が6曹に昇格した上で、6曹が王に直結、または議政府を通じて王に伝達される制度です。
高麗時代よりも王へ権力が集中する「中央集権制」が強まりました。
 
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しかし、朝鮮王朝後期になって朝鮮王朝の権力構造が変わります。
それが『備辺司ピビョンサ』の登場と固定化、権力の寡占化です。

 

 

『備辺司ピビョンサ』とは朝鮮中・後期、現在の議会に当たる『ウィジョンブ議政府』に代わって国政全般を統括した実質的な最高の役所です。
 
元々朝鮮王朝の政治体制は王権と議政府・六曹・三司(弘文館・司憲部・司諫院)が三権分立の様にお互い監視し合い機能する体制でした。

 

 

議政府が政治的決定を下すと、六曹が行政実務を執行し、三司が権力行使に牽制するのが原則でした。

 

これによって軍事業務は原則として議政府と兵曹の間で処理されて居たのです。
 
しかし、成宗の時になって倭寇と女真族の侵入が絶えなかった為、実情に合った対策を立てる為に、議政府の3大臣(領議政・左議政・友議政)と兵曹の他、国境地方の要職を務めた人物を参加させて軍事戦略を協議する様になりました。(彼らを備辺宰相と呼んだ)

 

 

1510年(中宗5)、現在の慶尚南道の地域に3箇所有った日本人居留地の港で、日本商人達が『サンポウェラン三浦倭乱』と言う暴動を起こしました。
まだ秀吉の朝鮮侵略以前だったので、この暴動は朝鮮王朝にかなりの衝撃を与えました。
 
そこで先の「備辺宰相」を急いで招集して防御策を議論、臨時的に「備辺司」という非常時に備える機構を作りました。

 

 

まさしく読んで字の如く「国の周辺の有事に備える機関(司)」です。
 
その後1517年には余震女真族侵入に備えて、1520年に廃四郡地方に女真族の侵入で再度「ピビョンサ備辺司」を設置し、征討軍を編成するなど作戦を練りました。
 
この様に元々「備辺司ピビョンサ」はあくまで有事の際の臨時的機関だったのです。

 

<ドラマ 1592>

 

「備辺司」は「ウィジョンブ議政府」や「六曹」を通さず国王に直接報告・司令を受けた為、周囲の非難と廃止を求める声が上がりました。
 
しかしその後も女真族の侵入などが絶えなかった事から、ほとんど常設機関化して重要な事案をを遂行、1554年(明宗9)後半から独立した合意機関に発展しました。
この頃は常設化されたと言ってもその権限は大きくは有りませんでした。

 

<壬辰倭寇のトンレ城の闘い>

 

しかし1592年(先祖25)秀吉の侵略「壬辰倭乱」が起こると、国難を収拾、打開する為、「ピビョンサ備辺司」が戦争遂行のための最高機関として君臨し、その機能が拡大強化されました。
 
軍政・民政・外交・財政に至るまで戦争遂行に必要な全ての事務を「ピビョンサ備辺司」が処理しました。

 

< ピビョンサトゥンロク備辺司騰録>

 
この様に、壬辰倭乱の間に機能が拡大強化された「ピビョンサ備辺司」は軍事問題を協議する官庁という名称を持ちながらも政治の重大な事項から宮中の内部まで処理するなど国政全般を掌握する様になりました。

 

<映画 天命の城>

 

仁祖の時になって後金・清との抗争(丁卯・丙子胡乱)過程で西人派政権は国防力強化を名目に軍事・政治の両権を掌握する為に「ピビョンサ備辺司」を通じて政府の全機構を支配しようとしました。
 
これによって「備辺司」はさらに拡大され、権限も強化され、「議政府」は有名無実の存在になってしまいました。

 

<映画より 三田渡の屈辱>

 

「ピビョンサ備辺司」도제조都提調, 제조提調, 부제조副提調, そして事務を行う数十人の랑청郞廳で構成されました。
大臣は兼任だった為、権力の有る者がその地位を独占する事が可能な構造でした。
 
その後、「備辺司」の政治的地位は動揺せず、主要政策の一部は「備辺司」の大臣数人だけの討議で決定される方式が多くなってしまいました。

 

 

この状態が何故問題だったかと言うと「ピビョンサ備辺司」は六曹・三司(弘文館・司憲部・司諫院)の牽制を受けず、ただ国王にのみ報告・決裁を受ける為「ピビョンサ備辺司」の独裁が可能になってしまう危険性が伴った為です。
いわゆる監視能力が喪失してしまいます。

 

<ドラマ チョリンワンフ>

 

特に国王が幼く経験も浅いなど判断能力に乏しい場合、安東金氏などの外戚が「ピビョンサ備辺司」の大臣の座を独占してしまい、自分たちの思う様に国事を独断する「勢道政治」が完成してしまう危険性が有ります。
現に安東金氏勢力はこの「ピビョンサ備辺司」を利用して自己勢力の増強と国事の壟断(ろうだん)を図ったのです。
 

  <ドラマ チョリンワンフより>

 

この様に「ピビョンサ備辺司」は朝鮮王朝後期に於いて大きなマイナス要因として機能したと言えます。
 

 

 

 

最近人気を集めたドラマ「チョリンワンフ哲仁王后」でも『備辺司ピビョンサ』を掌握して国王を骨抜きにした安東金氏の勢道政治が描かれました。

 

 

このような「ピビョンサ備辺司」機能の拡大、強化は議政府と六曹を主軸とする国家行政体制を乱すだけで、国防力の強化と社会混乱の打開に役に立たず、王権の相対的弱体化をもたらしたと認識される様になりました。

 

 
そのため1863年、我が子高宗を国王の座に据え、専制王権の復活を目指した興宣大院君は、まず1864年(高宗1)国家機構の再整備を断行、議政府と「ピビョンサ備辺司」の事務範囲を規定、「ピビョンサ備辺司」は元の通り外交·国防·治安関係だけを管掌し、残りの事務はすべて議政府に渡す様に、「ピビョンサ備辺司」の機能を縮小、格下げさせました。
 

<大院君>

 

また、翌年には「ピビョンサ備辺司」そのものを廃止して業務を議政府に移管し、その代わりに国初の『三軍府』を復活させて軍務を処理させる国政改革を断行しました。

 

この様に朝鮮王朝後期、政治紊乱と国政の混乱は「ピビョンサ備辺司」の存在が大きかったと言えます。

 

< ピビョンサトゥンロク備辺司騰録>

 

余談ですが、「ピビョンサ備辺司」の業務を記した「ピビョンサトゥンロク備辺司騰録」が存在し、朝鮮王朝後期の貴重な史料になって居ます。
 
次回はその後の朝鮮王朝末期の政治体制について見ます。

 

 

<参考文献>
한국민족문화대사전
우리 역사넷 
나무위키

 

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