第6章 朝鮮の人物-43 近世27
朴趾遠パクチウォンと熱河日記ヨルハイルギ
 
 
 
今回紹介するパクチウォン朴趾遠は、我が国の人物紹介で欠かせない大人物です。
 
朝鮮王朝後期、我が国を彩った実学者の内でもチョンヤギョン丁若鏞ソンホ星湖リイク李瀷と並ぶ大家で、プクハクパ北学派を率いる領袖として君臨しました。
 
 
号は燕岩で、良く『ヨナム燕岩パクチウォン朴趾遠』と呼ばれます。
 
彼の思想や主義主張について書く事は多いですが、今回は彼の名著『熱河日記 ヨルハ(ヨラ)イルギ』をメインに述べる事にします。
 
彼は1737年(英祖13)漢陽(ソウル)パンソンバン盤松坊ヤドン冶洞で生まれました。
体が健康で、頭脳も非常に鋭敏でした。
父が官職無く過ごしたので祖父が育てました。
 
パクチウォンは学問に邁進し、特に文章力で鳴らしました。
1760年に祖父が死ぬと生活は困窮しましたが、1度科挙に応試しただけで、科挙を受ける事も、官職に就こうともしませんでした。
 
 
パクチェガ朴齊家・リソグ李書九・ソサンス徐常修・リュドゥクゴン柳得恭・リュグム柳琴などと付き合い、学問的に深い交遊を持ちました。
 
この頃、実学者ホンデヨン洪大容・リドク李德懋などとも「利用厚生」についてよく議論して居ます。
 
<演劇>
 
正祖が即位した1776年より洪国栄が正祖の信任を得て勢道政治を繰り広げましたが、彼は老論派のビョクパ僻派に属して居たので、弾圧を恐れて黄海道キムチョン金川のヨンアムヒョプ燕岩峽に隠居しました。
彼の号「燕岩」はこの地名から来て居ます。
 
ここに隠居して居る間、農業と牧畜の奨励策をまとめました。
 
 
1780年(正祖4)の従兄弟バクミョンウォン朴明源が清国、高宗の70歳の『進賀使節団』の正使として北京に行く事になったので、それに随行して北京を訪問しました。(1780年6月25日〜10月27日)
 
鴨緑江を経て北京・熱河を4カ月も掛け旅行して帰って来ましたが、この時の見聞を纏めて書いた本が彼の代表著作で有る『熱河日記』です。
 
 
『熱河日記』は我が国の紀行文の嚆矢としてその名を成して居ますが、彼はこの著作の中で、普段の「利用厚生」の思想を具体的に表現して居ます。
 
この著述により彼の文才が有名になりましたが、斬新な文体がセンセーションを呼び、形式や格式を無視したその文体は多くの批判を受ける事になりました。
 
<熱河への旅上>
 
正しい文体を主張する「文体反正」運動を推進して居た正祖も、人を介して朴趾遠に反省文を書く事を要求して居ます。
 
その後、1786年にウムソ蔭敍(科挙を経ずに役職を得る事)ソンゴンガム繕工監カムヤク監役に就いた事を皮切りに、1789年ピョンシソ平市署チュブ主簿・サボクシ司僕寺チュブ主簿、1791年漢城府判官などを歴任しましたが、1800年ヤンヤン襄陽プサ府使を最後に官職から退きました。
 
<中国での見聞>
 
多くの職歴中に著した書籍としては「​​課農小抄」「限民名田議」「按說」などが残りますが、やはり最高峰は「熱河日記」です。
 
この著作に彼の思想・主張が顕著に現れて居ると言えます。
 
「熱河日記」で彼が強調したのは、当時の清の繁栄した文物を受け入れて立ち遅れた朝鮮の現実を改革する事でした。
 
<地方で水車を実践>
 
「丙子胡乱」で清国と屈辱的な講和を結ぶ事になった朝鮮王朝は、現実的な面には耳目を塞ぎ、明国が滅びた後『中華』を継ぐのは朝鮮で、オランケ(野蛮)の国で有る清国からは何も学ぶ事は無いと『面従腹背』を決め込んで、彼らの技術を無視する政策を繰り広げました。
 
この様な小中華思想が我が国に大きな害毒を与えたのは明らかで、文明・技術の大きな後退をもたらしました。
 
 
パクチウォンは、たとえ清国が明国を滅ぼした野蛮国だとしても、先進的な文明は見習うべきとの主張を強く繰り広げ、「北学」を説きました。
ここでの「北」とは清国を指し、『ブクハク北學思想』と呼ばれるパク・チウォンの主張は、当時の為政者や知識人に強い刺激を呼び起こす結果となりました。
 
この主張は実学者の中でも「利用厚生」を強く唱えた『利用厚生派』と言う学派を生み、特に彼の「北学」思想を中心に捉える実学派「北学派」の形成を促しました。
 
 
彼の著書『熱河日記ヨルハイルギ』については内容が多い為、別途改めて記事を書きます。
 
熱河日記の記事出来ました。コチラを
 
 

また、もう一つの彼の代表作である小説「リャンバン伝」についてもひとコマ設けて紹介します。

 

出来上がりました。コチラをどうぞ

 

彼は当時朝鮮に広まり始めた「西学」にも強い関心を持ちました。
これは、自然科学の源を理解しようとした物で、新しい文物に対する彼の進取性を表す一例と言えます。
 
 
これら宇宙への関心はホンデヨンとの交遊から生まれたと見られ、彼は実際に北京を旅行する時、天主堂や観相台を見学し、西洋人にも会いたがりました。
天文学に深い関心を見せたパクチウォンの学問的な貪欲さは、当時の中国の学者たちも驚いたと言います。
 
 
彼の文集は1900年まで出版されませんでした。
右議政を努めた彼の孫、パクキュス朴珪壽の時代にさえも彼の文集を出版する事が出来なかった事ひとつ見ても、彼の著作、文章が当時としては破格で、政策面で受け入れ難い程の先進的な内容を含んでいた事の証左となります。
 
彼は1800年正祖が逝去し、1801年ヤンヤン襄陽管内の僧侶が宮中と結託し弊害を起こすと、職を辞し退きました。
 
<.彼の孫 パクキュス朴珪壽>
 
1803년年痛風で身体が麻痺し、文を書けなくなりました。
1805年(純祖5年)10月、漢城府カフェバン嘉會坊ジェドン齋洞)の自宅で69歳の生を終えました。
 
先にも述べた様に、彼の孫のパクキュス朴珪壽朝廷で右議政を務め、実学思想を朝鮮の現実に即し発展させ、若きキムオクキュン金玉均らを育てた「開化思想」の創始者として知られて居ます。
もし彼の文集が生前に出版され朝鮮王朝で大きなムーブメントを巻き起こして居たら、少なからず政策面で受け入れられ社会的変革を引き起こして居たら、その後の孫のパクキュス朴珪壽の時代の朝鮮王朝の姿、ひいては現代韓国朝鮮の姿はどの様に変わって居たでしょうか?
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
나무위키 
위키백과 
우리 문화신문  호기심 제왕, 연암 박지원
 
 
<演劇>