<映画 大将キムチャンス>

 
6章 朝鮮の人物-74 現代10
金九キムグ
 
 
 
題名に書いた亀鑑きかんと言う聞き慣れない言葉をご存知ですか?
鑑(かがみ)としてお手本にすべき人物を指します。
 
今回は頑固な反共主義の民族主義者、されど「統一独立」と言う崇高な目的の為にはそれら政敵とも手を結ぶ、まさしく「亀鑑」と呼べる我が国に於ける偉大な政治家として名高いキムグ金九について述べようと思います。
 
比べられる事の多いリョ・ウニョン呂運亨と抱き合わせで書こうと思いましたが、とても紙面が足りないので単独で書かせて頂きます。
 
 
金九については前にも紹介した、以前私が朝鮮青年同盟の機関紙「朝鮮青年」に連載させて頂いた連載コラム『歴史の先覚者たち』の記事でも彼を取り上げた事が有り、とても感慨深いものが有ります。
 
あの頃から20年以上が過ぎ、同じ人物に対しても書くタッチはかなり違っているので、ウリマル(ハングル)で執筆して居る事も有り、読み比べて頂くべく真剣に翻訳作業を考えて居ます(笑)。
 
彼は1876年、没落した両班家庭に生まれました。
往年180cmに迫る巨漢だった彼は生まれた時から難産だったそうで、4歳の頃には天然痘に掛かり九死に一生を得て居ます。
元々の名前は金昌巖キム・チャンアムで1893年(18歳) 金昌洙キム・チャンスに変え、1912年(37歳)に金亀キム・グ、その後音の同じ金九キム・グに改名して居ます。
 
 
9歳から漢文の勉強を始め、父親の情熱で家に書堂(寺子屋)を造り学習しました。
「統監」「史略」などと兵書の古典を愉しみ科挙に挑みますが落第し科挙すら無くなってしまいました。
 
世の中への鬱憤から18歳の時に東学に入門して農民戦争に乗り出しました。
海州城を攻略し東学軍が敗戦するや金九も身を潜めますが、弾圧する側で有る安重根アン・ジュングンの父親、安泰勳アン・テドンが匿ってくれました。
その縁でその後も双方の家の縁は続いたそうです。
 
1年のあいだ、安泰勳の食客だった儒者コ・ヌンソン高能善に学問を学び斥邪思想を身に付け、一時南満州でキムリオン金利彦義兵部隊に身を投じました。
 
彼の遍歴で有名なエピソードは1896年3月当時の名前キム・チャンスが武装した日本の民間商人土田を殺害した事件です。
金九は明成皇后殺害以後、日本軍人に恨みを抱き、「国母を殺害した日本人」を殺害して仇を討とうとして民間人で有った土田を日本軍やスパイと間違え殺害しました。
 
彼は捕らえられ死刑宣告を受けますが、執行直前に高宗から我が国で初めて開通した市外電話で恩赦を受けたそうです。
この時期を描いた映画「大将キムチャンス」が話題になりました。
 

<映画 大将キムチャンス>

 

2年間収監生活のちに脱獄を敢行、逃げた彼は1898年に頭を刈って俗世を去り麻谷寺に隠れました。
1年後還俗、黄海道長淵で鳳陽ポンヤン学校設立に尽力し自ら教壇に立ち啓発・教化事業を展開しました。
20代後半にキリスト教に入信して居ます。
 
このような中、1905年乙巳条約が締結されると上京して教会の条約反対全国大会に参加し、李東寧リドンニョン・李儁リジュン・全德基チョンドクキなどと共に乙巳条約の撤回を求める上訴や鐘路での街頭演説に出るなどの活動をしました。
 
1906年海西へソ教育会総監として学校設立を推進、翌年安岳に楊山ヤンサン学校を設立しました。
 
1909年の全国講習所巡回に出て愛国心を鼓吹する一方、保强学校校長となり、秘密組織「シンミンフェ新民会」のメンバーとなって救国運動にも加担しました。
 
その後、1911年1月に寺内総督の暗殺を謀議したという105人事件(安岳事件)の関係者として逮捕され、17年の刑を言い渡されます。
 
 
1914年7月に減刑され刑期2年を残して仁川に移された後1915年仮釈放されますが、金鴻亮キムホンリャンの農場管理人として農村復興運動に力を入れ、農村啓蒙運動と小作争議などを主導しました。
 
1918年新韓独立党に入党、1919年3・1運動の直後上海に亡命し大韓民国臨時政府(臨政)の初代警務局長官となり1924年首相代理、1926年12月国務領に就任、翌年憲法を制定し国務委員となりました。
 
1929年在中国居留民団団長を務め、1930年李東寧・李始栄などと韓国独立党を結成、1931年韓人愛国団を組織、白色テロ活動に手を染めます。
この時期、彼の黒歴史とも言えるテロ活動が起こっています。
彼は左翼系独立運動家に対する言われの無い白色テロを敢行し、彼の経歴に黒いシミを残しました。
他にも1932年1・8李奉昌リボンチャン義挙と4・29尹奉吉ユンボンギル義挙を主導したと有り、尹奉吉の義挙が成功して大きく名前を轟かせました。
 

<臨政のメンバー>

 

1933年蒋介石に会って臨政の支持を得ます。
韓中両国の友誼を深め、中国の洛陽軍官学校を光復軍養成所として使用する事に合意、右派独立運動家たちに大きな勇気を与えました。
 
1940年3月の臨政の国務委員会主席に就任、同年重慶で韓国光復軍を組織して総司令官に池青天、参謀長に李範奭を任命し、抗日武装部隊を組織しました。
 
主に外交戦略に囚われて居た臨政の大いなる政策転換で有り、独立軍以来の独自の軍事力でしたが、あくまで蒋介石支配下の組織で有り、資金難に喘いで青色吐息だった臨政に取って軍事力は絵に描いた餅でしか無かったと言えるでしょう。
 

<光復軍>

 

日本の真珠湾奇襲に際して1941年12月国際的に認定されては居ないものの、臨政の名で対日宣戦布告をし臨戦態勢に突入、1942年7月の臨時政府と中華民国政府との間で光復軍支援のための正式な協定が締結され、光復軍は中国国民軍との連合で抗日共同作戦に出る事が出来る様になりました。
しかし、蒋介石率いる国民軍自体が日本軍に全く軍事的に押されて居る状態で、実際の解放戦争に赴く状態では無かったと言えます。
 
彼らは日本軍に強制徴集された学徒兵を光復軍に編入させ、西安と阜陽に韓国光復軍の特別訓練班を設置し、米陸軍戦略班と連携して秘密特殊工作訓練を実施するなど軍事訓練を積極的に推進する中で、所謂「銃一発も撃つ事無く」8・15光復を迎えます。
 
 
解放するや朝鮮38度戦以南に駐屯した米軍政が『朝鮮半島の他の統治主体を認めない』という方針を打ち出した為、臨政主席と言う資格での帰国が許されず、1945年11月になって個人の資格で入国すると言う屈辱を経験、臨政国務委員と一緒に第1陣で帰国しました。
 
帰国後南朝鮮での政局主導権争いに参戦します。
 
次回呂運亨の回で詳しく触れますが、この時期は解放直後に発表された彼呂運亨の「朝鮮人民共和国」が米軍政により否認され、李承晩リスンマンがアメリカより帰国し、彼を中心とした独立促成中央協議会(独促)が主導権を握り始めた時期でした。
 
金九は帰国後、臨政が新しい国家建設の中心になるべきだとして韓国独立党(韓独党)を結党しましたが、臨政のカリスマ性を封じられた状況で彼の政治的立地は思いのほか狭く、宋鎭禹ソンジンウ韓国民主党と提携を模索しますが霧散します。
アメリカ軍政とも主導権を巡って葛藤、警告を浴びました。
 

<モスクワ3相会議>

 

その年12月28日、モスクワ3相会議信託統治案が提案されると信託統治反対運動に積極的に先頭に立ち、自主独立政府樹立を目指し「信託統治反対国民総動員中央委員会」を結成しました。
 
このモスクワ3相会議信託統治案については後日詳細に述べます。
 
金九は政治的苦境を乗り越える方策として右翼の政党統合運動に活路を探りました。
金九は金性洙キムソンス韓国民主党(韓民党)をはじめ国民党、新韓民族党などの統合を提案しますが、韓民党の抵抗が特に大きく、結局韓民党は不参加で、韓独党と国民党、新韓民族党の統合で終わりました。
右翼の最大政派の韓民党が抜けた統合の効果は金九が当初考えていたほど大きく有りませんでした。
 
彼は臨政を中心に各政党の統一戦線としての「非常国民会議」を招集し、信託統治案賛成に回った左翼を排除し右翼のみ統合したこの会議の副総理に就任して居ます。
 
 
反対に朝鮮民族革命党、朝鮮民族解放同盟など臨政内の左翼勢力は、金九臨政が左翼との統一戦線樹立は無視したまま、右翼勢力の統合のみに熱心だと非常国民会議を離脱しました。
 
1946年10月、米軍政が南朝鮮過渡立法議員選挙を発表すると韓独党は内紛に陥りました。
金九など党主流は立法議員の選出が臨政の法統論に反すると消極的な立場を見せましたが、安在鴻など国民党系は立法議員選挙で南朝鮮人の自治権が拡大されると肯定的な反応を見せたのです。
 
韓独党は選挙で惨敗し、以降立法議員に選出された党員の処遇問題置で再び党論が分かれます。
 
1947年2月に金九に新たな機会が来ました。
 
李承晩民族統一総本部、大韓独立促成国民協議会、金九の非常国民会議が統合して、『独立促成国民議会(後に国民会議に改称)』を組織し右翼最大の大衆組織になったのです。
彼は副主席となりました。
この会で南朝鮮唯一の立法機関を目指しました。
 
しかし、臨政を主体として政局のリーダーシップを取ろうとした金九の目論みは砕け、彼の立場は脅かされます。
 
金九韓独党韓民党の合党も再び推進しましたが、彼らの日和見主義的な態度でまたもや霧散します。
 
<李承晩と>
 
李承晩との距離も段々鮮明になって来ました。
彼らの関係は元々悪くなく、1942年李承晩が路線を巡って臨政の一部と葛藤が生じた時も金九は李承晩を擁護していて、個人的には義兄弟の様な間柄だったと言います。
しかし、単独政府樹立にひた走る李承晩の路線が鮮明になると2人の間柄は疎遠になり、後に完全に決別しました。
 

<ソ米共同委員会>

 

1947年9月ソ米共同委員会が決裂し朝鮮の問題がアメリカの違反行為により国連に移管されると、金九は臨政の正当性を放棄し、南北指導者会議に立脚した南北の総選挙に関心を持つようになりました。
 
1947年11月に国連監視下に南北総選挙による政府樹立決議案が国連で決議されるとその決定を支持しますが、1948年初め北が国連の南北総選挙監視委員団の国連朝鮮臨時委員の入北を拒絶する事で選挙可能地域である南朝鮮だけの単独選挙が決定するとそれに反対を表明しました。
 
金九南朝鮮だけの選挙による単独政府樹立の方針に絶対反対する立場を取り、分断された状態の建国より統一を優先して5・10制憲国​​会議員選挙を拒否する方針を固め、その年の4月19日、南北交渉の為、平壌ピョンヤンに向かいました。
 
 
南北分断を防ぐ為の最後の手段として金奎植キムギュシクと共に訪北して金日成キムイルソン連席会議を開き、南北総選挙を実現しようとしたのです。
金九・金奎植・金日成・金枓奉などが南北交渉4者会談に臨みましたが、民族統一政府樹立はならず、その年の5月5日ソウルに戻って来ました。
 
この南北連席会議の経過と結論については今も南北で主張が異なっており、私も詳しい言及は避けます。
 
余談ですが、統一選挙が不可能だった大きな原因として南北の人口差が有りました。
当時も北の1千万人に比べ南は2千万人居り、公平性の確保が困難です。
 
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1948年に国会議長候補として推薦されましたが、金九が選挙を放棄して李承晩が国会議長に当選しました。
7月に制憲議会で大統領候補で支持率6%台、2位で落選、副大統領候補でもやはり2位でした。
その後、韓独党の整備と建国実践員養成所の仕事に力を入れ、救国統一の担い手の養成に力を注ぎました。
 
 
以前歴史篇本編で述べた通り、北部朝鮮でも直接・間接選挙により南北総選挙が実施され、その年の8月15日と9月9日にソウル平壌にそれぞれ南北の単独政府が建てられました。
 
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その後も、彼は民族分断の悲哀を乗り越え、民族統一運動を在野で展開していた中で、翌年6月26日、ソウル西大門区の京橋荘で陸軍少尉安斗煕アンドゥフィに暗殺されました。
 
彼の人生から、生粋の民族主義者で反共主義者、白色テロをも辞さない固陋な人物でさえも民族分裂の悲劇を避ける為には思想と理念の差を乗り越え合作出来る事を知る事が出来ます。
 
彼を描いたドラマ映画は多く、以前にもランキングを見ましたが、近代人物では断トツの1位を誇って居ます。
 
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<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
위키백과 
Wikipedia
 

<ミュージカル他 南北連席会議>