<ミスターサンシャインより>
 
6章 朝鮮の人物-60 近代11
乙巳五賊 李完用ほか
 
 
 
前回まで崔益鉉を始めとする義兵について見ました。
 
義兵と来ればその闘いと対(つい)を成す愛国啓蒙運動ですがその前に、1905年に締結され我が国を「保護国」化し実質的な植民地に追いやった乙巳五条約・乙巳保護条約とその張本人たちについて見たいと思います。
 
まずこの時期の歴史全般については年表を兼ねたこの記事をご覧下さい。
 
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日本は1904年2月8日奇襲にて日露戦争を起こすと、2月11日韓国の中立宣言を無視して徳寿宮を占領、2月23日、韓日議定書を強制的に締結し、5月には日本国内閣議で対韓方針・対韓施設綱領など韓国を日本の植民地にする為の新しい政策を決定しました。

 
 
続いてその年の8月22日には第1次韓日協約(外国人顧問に関する協定)を締結、財政・外交の実権を奪って韓国の国政全般を思うままにしました。
 
日露戦争が日本に有利に展開されて影響力が大きくなると日本は国際関係を注視し、韓国を保護国にするシナリオ作りに更に拍車をかけました。
 
韓国の保護国化には列強の承認が必須だったので、日本は列強の承認を受ける事に集中、まず1905年7月27日に米国と『タフト・桂密約』を締結して事前承認を受け、8月12日には英国と第2次日英同盟を締結して了承を受けました。
 
続いて日露戦争の辛勝により9月5日米国のポーツマスで結んだロシアとの講和条約で、韓国の勢力圏承認の保証を受けました。
 
 
日本による韓国の保護国化強要との噂が流れ韓国の朝野が怪しむ中、11月に枢密院長の伊藤博文が高宗慰問特派大使の資格で韓国に派遣され、日韓条約案を韓国政府に提出する事になります。
 
11月9日ソウルに到着した伊藤は翌日高宗を拝謁し、天皇陛下の「朕が東洋平和を維持する為に大使を派遣するので、彼の指揮に沿って措置ください。」という内容の親書を奉呈しプレッシャーを与えました。
 
続いて15日に高宗を再度拝謁して日韓条約案を押し付けましたが、非常に重大な事案だったので朝廷の深刻な反対にぶつかりました。
 
17日には日本公使が韓国政府の各部大臣を日本公使館に呼び韓日協約の承認を図りましたが、午後3時まで結論を得られないと宮中で御前会議を開くに至りました。
 
この日宮殿の周りと市内の要所要所には武装した日本軍が警戒を行い、市内を絶え間無くデモ行進し、本会議場の宮殿の中にまで武装した憲兵と警察が気兼ねなく出入りし、言い知れぬ殺気を醸し出しました。
 
しかしこのような恐怖の雰囲気の中でも御前会議では、日本側が提案した条約を拒否するという結論を下します
 
<映画ラストプリンセスの高宗>
 
ここに伊藤は駐韓司令官長谷川好道を伴い三回も高宗を拝謁し、政府の大臣と熟議して円満な解決を見る事を促しました。
 
これに対し高宗は自分の責任を棚上げし、身体の不自由を口実に引き篭(こ)もってしまいます。
高宗が不参加の中で、再び宮廷の御前会議で意見の一致を見られずに居ると、日本の公使が伊藤を呼んで来ました。
 
MPの護衛を受け長谷川を同伴してやって来た伊藤は、再び会議を開いて大臣一人一人に条約締結に関する賛否を尋ねました。
 
この日の会議に参加した大臣は、
参政大臣ハンギュソル韓圭卨
度支部大臣ミン・ヨンギ閔泳綺
法務大臣リハヨン李夏榮
学部大臣リワンヨン李完用
軍部大臣リグンテク李根澤
内部大臣リジヨン李址鎔
外部大臣パクジェスン朴齊純
農工大臣クォンジュンヒョン權重顯などでした。
 
<ラストプリンセス ポスター>
 
このうちハンギュソルミンヨンギは条約締結に積極的に反対しました。
 
リハヨンクォンジュンヒョンは消極的な反対意見を出しますがクォンジュンヒョンは後で賛意に翻します。
 
他の大臣は伊藤の強圧に勝てず若干の修正を条件に承認の意思を明らかにしました。
激怒したハンギュソル高宗の元に走って行って、会議の決定を拒否する様にしようとして途中で倒れました。
一説では日本に拉致されたと言います。
 
この日の夜伊藤は、多数決で承認が否認を上回ったので条約は承認されたのだと述べ、条約締結に賛成する大臣たちと再び会議を開き、手書きで若干の修正を加えた後、強圧的な雰囲気の中で条約を承認させました。
 
 
朴斉純・李址鎔・李根沢・李完用・權重顯の5人が条約締結に賛成した大臣達だとして、これを「乙巳五賊」と呼びます。
 
彼らのうち誰を取り上げるか悩みましたが、意を決し、朝鮮史上最大の親日反民族行為者との呼び名も高いリ・ワンヨン李完用のみ反語的な意味で生涯を辿って見ます。
 
李完用は1858年6月京畿道広州市で生まれました。
没落両班の子として生まれ、リ・ホジュンの養子に入り権力の核心部に入る足場を確保しましたが、出世欲が強かったという評価を受けて居ます。
 
1882年文科に合格、世子を教え純宗とは子弟の間柄です。
高宗が国際業務を担当する若手官僚を教育する為、育英公院を作りましたが、そこでハルバートに会い英語を学びました。
彼は朝鮮人の中でも英語の実力者の一人でした。
 
彼はアメリカが世界一という当時の朝鮮の雰囲気の中で米国駐在公使に就任、親米派官僚として成長しました。
 
<李完用>
 
乙未事変が起こると、日本を避けてアメリカ公使館に高宗を逃れさせようと試みましたが失敗、この事件は春生門事件と呼ばれます。
 
李完用はこの事件に関与して高宗の高い評価を受ける様になりました。
 
以降李完用は再度俄館播遷で高宗をロシア公使館に避難させた功労で、外部大臣兼農工大臣の官職を得、高宗に沿って親露派に転向しました。
 
李完用は独立協会の初代副会長と2代会長を務め、独立協会の存続期間3分の2以上携わりました。
独立門の扁額も李完用が書いて居ます。
 
親露派と排斥派の葛藤の中で、李完用は1898年3月全羅北道観察使に左遷され、5日で職務怠慢・公金横領で剥奪、独立協会も除名されました。
 
李完用失脚後、尹致浩を中心とした独立協会は1898年10月ロシアと日本の利権侵奪を糾弾する万民共同会を開催し、立憲君主制を目指しましたが、皇国協会を中心とした守旧派の妨害で万民共同会と一緒に弾圧解散された事は以前書きました。
 
 
李完用はこの弾圧前に既に失脚して居たので独立協会と直接関連性は有りませんでしたが、1904年まで故郷に戻り何の官職も得ず隔離、途中高宗から復帰勧誘が有った物の本人が拒否して居ます。
 
1904年から本格的に活動、1905年に李完用は学部大臣として日本軍武力示威を背負って御前会議を開き、高宗に代わって 乙巳条約を締結。
乙巳五賊の首魁になり、その積極性に伊藤博文の関心を買う事になりました。
 
李完用高宗を直接脅迫した訳では無く、1番脅迫したのは權重顯ですが、あくまで「(条約を)ダメだとは出来ないので、添削して交渉しよう。」と言う現実的な論理で高宗と乙巳五賊の橋渡しの役割をしたのですが、これは最も重要な役割でした。
 
その後も自分たちは五賊ではなく、仕方なく泥をかぶった一番の忠臣であり、他の者は偽善者で有ると言う類いの自己弁明をしました。
 
各国に派遣された大韓帝国の駐在公使を召喚すべしと主張したのも李完用です。
 
<ラストプリンセス ポスター>
 
1907年高宗のハーグ密使事件が発生すると、総理大臣李完用と内閣の大臣は高宗に皇帝退位を迫りました。
閣議で皇帝退位を決定し、電話回線を切断した後、強制的に純宗の即位式を進めてしまいました。
 
伊藤博文は当初乙巳五賊メンバー朴齊純を利用しようとしますが同調しないので、彼を退かせ李完用を参政大臣に座らせ進めました。
純宗の即位直後の24日、丁未7条約(韓日新協約)で内政まで統監部の支配を受けるという案を一言一句変更せずに通過させました。
 
<映画 安重根伊藤博文を撃つ>
 
その年の8月には韓国軍を解散、解散された韓国軍が合流した丁未義兵が盛んに起きた時、李完用は日本軍隊長の長谷川を毎日訪ねて義兵討伐について議論したと知られて居ます。
 
1909年に、伊藤博文は司法権を奪う作業を計画し進めます。
内閣でも反対が殺到しましたが、内閣総辞職が事実上既定事実化されると彼は2代目統監曽根と単独で会議もせず条約(己酉覺書)に署名してしまいました。
 
これらの一連の事件により李完用は民衆の怨みを買い、家が民衆によって放火され、自分も12月22日軍人だったリジェミョンの襲撃を受けますが九死に一生を得ます。
 
余談ですが、当時行われた外科手術の記録は、貴重な医学史料として、朝鮮最初の胸部外科手術と記録されて居ます。
 
<乙巳五賊>
 
5月30日寺内が第3代統監に上り警察権の回収を通知、内閣は寺内が韓国に入国する前に無気力に通過させてしまいました。
7月23日、韓国併合に関する詳細の議論まで終え寺内は入国、この頃手術が正常に完了した李完用も療養を終えて上京、秘書を介して合併を先に提案しました。
 
合併条約に李完用「国号韓国と皇室の王の称号だけは絶対に譲れない」と述べ、条文追加を要求しましたが、皇室の保護というよりも皇室の支持を得る自己立地の強化に見えます。
 
そして8月22日、李完用は最後の閣議を開き韓日併合条約を可決しました。
以降1週間は隠しましたが、8月29日付けで純宗の名前で発表されました。
この時、年齢52歳、彼はそのように自国を売り払いました。
 
<安重根 伊藤博文を撃つ>
 
強制併合が行われると、日本から勲1等功臣を受けました。
朝鮮人が朝鮮人を監視する「朝鮮人憲兵隊」も李完用のアイデアで、植民地当初の憲兵警察制度は事実上李完用が作ったものでした。
また、名目上の総督諮問機関である名前ばかりの「中枢院」の顧問と副委員長を務めました。
 
1919年3.1運動が起きると李完用は警告を三回発表、親日売国奴の姿勢を再三新たにして居ます。
翌年公爵に昇級、1925年12月には暴行事件に遭遇して居ます。
 
1926年2月67歳で死亡しましたが、最後の君主
純宗が死ぬ4ヶ月前でした。
当時も極めて当然の事ながら民衆には憎悪の対象で、今なお物議を醸して居ます。
 
 
何故彼の様な売国奴が誕生したのか私も興味津々で、様々な分析をしたい所ですが、そこまで述べる余裕は無いのでいつかの機会に譲ります。
 
どうであれ、売国奴は突然変異では無く我が国歴史の必然の出現だったと言え、この様な構造を生み出したシステムから教訓を得る必要が有ると思います。
 
戻り、次に乙巳保護条約の条約を見ますが、正式には第2次韓日協約です。
 
内容は次のとおりです。
 
第1条:日本国政府は東京外務省を経由して今後韓国の外国の関係と事務を管理・指揮し、日本国の外交代表および領事は外国に在留する韓国の臣民と利益を保護する。
 
第2条: 日本国政府は韓国と他国の間に現存する条約の実行を果たす使命があり、韓国政府は今後、日本国政府の仲介を経ずには国際的な性質を持つ条約や約束も出来ない事。
 
第3条: 日本国政府はその代表者として韓国皇帝陛下の元に1人の統監を置くこととし、統監はひたすら外交に関する事項を管理する為に京城(ソウル)に駐在し、韓国皇帝陛下を親しく謁見する権利を有する。
 
第4条:日本国と韓国の間に現存する条約との約束は、この条約に抵触しない限り、すべてのその効力が続くものとする。
 
第5条: 日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳の維持を保証する。
 
この条約に基づいて韓国は外交権を日本に剥奪され、外国にいた韓国外交機関がすべて廃止されました。
 
 
イギリス・アメリカ・清・ドイツ・ベルギーのなどの公使は公使館から撤退して本国に帰りました。
翌年1906年2月にはソウルに統監府が設置され、条約締結の元凶である伊藤が初代統監に就任しました。
統監府は外交だけでなく、内政面でも、韓国政府に直接命令、執行にする権限を持って居ました。
 
これに対して、我が民族は様々な形態の抵抗に対抗しました。
 
張志淵が11月20日「皇城新聞」に論説「シイルヤパンソンテゴク是日也放聲大哭」と言う社説を発表し、日本の侵略性を糾弾し、条約締結に賛成した大臣を指弾しました。
国民が一斉に決起して条約の無効化を主張して 乙巳5賊を糾弾し、条約反対闘争に乗り出しました。
 
高宗は条約が不法締結されてから4日後の22日に米国に滞在中の皇室の顧問ハルバート(Hulburt、HB)に「朕は銃刀の脅威と強制により最近両国の間で締結された、いわゆる保護条約が無効であることを宣言する。
朕はこれに同意した事も無く、今後も決して無い事だろう。
この意味を、米国政府に伝えてほしい」
と通報し、これを万国に宣言するようにしました。
 
<ミスターサンシャインの高宗>
 
この事実が世界各国で知られ、翌年1月13日「ロンドン・タイムズ」紙が伊藤の脅迫と強圧的に条約が締結された事情を詳細に報道し、フランス工法学者レイも、フランス雑誌「国際広報」1906年2月号に書いた特別寄稿で条約の無効を主張しました。
 
一方、儒生と元官吏は上訴闘争を繰り広げ、死をもって祖国の守護を訴えるに至りました。
 
侍從武官長ミンヨウンファン閔泳煥を始め、チョビョンセ趙秉世、ソンビョンチャン宋秉瓚、ホンマンシク洪萬植、リサンソル李相卨、リハンウン李漢應、リサンチョル李相哲、チョンボンハク全奉學・ユンドゥビョン尹斗炳・ソンビョンソン宋秉璿・イゴンソク李建奭などの重臣や憂國之士が自ら命を断ち抗議しました。
 
 
この他、清国人潘宗禮と日本人西坂坡豐も投身自決し、条約反対の意思を明らかにして居ます。
 
一方で積極的かつ果敢な闘争に立ち上がったのが前回見た義兵たちで、彼らと同時に愛国啓蒙運動も活発に繰り広げられましたが、次回その活動を見たいと思います。
 
メディアで李完用などは良く出ています。
映画「ラストプリンセス」やドラマ「ミスターサンシャイン」などに名前を変えて登場します。
 
以前書きましたが、乙巳条約の模様は共和国の映画「安重根 伊藤博文を撃つ」が白眉です。
YouTubeにも有りますのでよろしければご覧ください。
 

<ミスターサンシャインのリワンヨンモデル>

 
<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
 

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