<ドラマ ミスターサンシャインにて>
 
6章 朝鮮の人物-55 近代6
高宗コジョン
 
 
 
今回、満を持して国王高宗を扱います。
在位期間も生年も長く、彼の登場により近代朝鮮の歴史が始まり彼の死と共に近代史が終わり現代史への幕開けが始まりました。
一言で 近代朝鮮の申し子と言えるかも知れません。
 
 
そこまで暗君でも有りませんが、もちろん名君でも無く、凡庸かつ中庸な人物。
他の時代ならともかく時代が悪く、彼の様な人物ではとても耐え切れなかったでしょう。
 
彼は1852年興宣君李昰應と閔氏の次男として生まれました。
名前はミョンボク命福、即位後載晃に改名、避諱でヒョン㷩に変えました。
 
<ドラマ 明成皇后>
 
高宗は元は仁祖の子孫で権力とは遠い人物でした。
子供の頃の高宗は特別な事も無く、父親の興宣君は実権は無くても宗親府の主要職を引き受けて居たので上流層に位置しました。
 
1863年、12歳にして普通の王族の子李命福の人生が一瞬にして変わりました。
国王哲宗が後嗣無く亡くなると興宣君趙大妃の裏取り引きにより純祖の息子の孝明世子の養子に入り、第26代国王として即位する事になったのです。
 
 
高宗が15歳になった翌年趙大妃垂簾聴政が終わった為、公的には親政ですが、興宣大院君が法的根拠無しの王の実父という理由で実質的に上王の様に君臨した為、高宗の実質的親政はなりませんでした。
 
しかし即位10年が過ぎ、22歳になると自己の主導で興宣大院君を失脚させ親政を敷きました。
以前は王妃明成皇后の差し金と言いましたが、現在では本人の意思が強かったとされます。
 
 
その後、最後まで大院君とは折り合わず政敵となりました。
高宗は興宣大院君の改革をほとんど継承し戸布制、私娼制、書院撤廃などを固守し、当百銭、清銭を廃止し、民生を安定させる為に努力しました。
この頃を見ると、決して能力が無くは無かった事を示して居ます。
しかし財政難が彼の治世を襲って居た事に違いは無く、その為大院君時代に強化した軍備を縮小するなどミスを犯して居ます。
 
<ドラマ 明成皇后より>
 
そんな中1875年江華島事件が起こり、測量を口実に接近した日本の「雲陽号」は朝鮮軍が正当な威嚇射撃をするとすぐに攻撃を敢行し、朝鮮軍は全く抵抗できず崩れました。
 
朝鮮王朝は日本の武力に驚きはしましたが、朴珪壽初めとする大臣が熱心に開国を勧め高宗自身も開放に関心を持って居たので、
大院君時代の方針を捨て、儒生達の絶対反対の姿勢を抑え江華島条約を、しっかりとした準備も無しに締結しました。
 
<江華島条約>
 
1882年新式軍隊•別技軍に対する旧式軍隊の差別と宣慧庁の腐敗に起因する壬午軍人暴動が起こりました。
 
暴動のニュースを聞いた高宗は
「13ヶ月もの給料を受けずに規律を守った事が奇特だ」と賞賛し、処罰無しとの結論を下します。
所が閔一族の閔謙鎬は王命を軽く無視して首謀者を強制的に監禁しました。
 
ここに事態は大きくなり高宗はあたふたと大院君を迎え全権を委託します。
大院君は軍人を解散させ別技軍を解体し、江華島条約を始め日本との全ての条約の破棄を一方的に宣言します。
しかし高宗は逃れた明成皇后と連絡を取り、陰で清軍の派遣を要請し軍乱を鎮圧しました。
 
<朝鮮軍隊>
 
1884年甲申政変では金玉均ら開化派の行動に高宗は何ら疑義も示せず従いましたが、明成皇后が秘密裡に守旧派と連絡、清軍によって鎮圧します。
金玉均高宗を仁川に連行しようとしますが、彼はとことん昌徳宮を離れないと駄々をこね、失敗に終わりました。
 
清の朝鮮に対する宗主権(事大関係)はいよいよ強まり、日本は日本で居直り、朝鮮に漢城条約を強要し賠償を受けました。
そして清とは1885年天津条約を締結し、朝鮮での地位を対等にします。
 
<開化派>
 
甲申政変後の10年の間、高宗は済衆院などの近代式病院、電信、電気などを導入し軍制改革に着手しました。
高宗のこの様な改革はあくまで大混乱後不安になった自己の王権を維持する為の対症療法に過ぎず、西洋文物に対する無理解のせいで非常に曖昧で中途半端な物でした。
 
彼の政権維持へのこだわりは強く、財政の確保に集中し、内務省は改革では無く高宗の秘密資金の確保に血眼になりました。
 
1894年甲午農民戦争が起こると高宗はまたもや清軍の派兵を要請します。
天津条約により戦争の危機が迫る中での清軍派遣要請は正に自殺行為で、朝廷大臣も反対しましたが、高宗は我関せずとばかり押し切りました。
 
国際危機意識の欠如は彼の最大のウィークポイントと言え、最近彼を名君と見直そうとする動きにはブレーキを掛けざるを得ません。
 
<日清戦争の風刺画>
 
結果、日清戦争が起こり甲午改革が始まりました。
この間に奴婢制、身分制が撤廃され、度量衡の統一、貨幣改革、租税の金納化、財政一元化など改革が行われました。

大きくは王権の制限を目標とする改革に高宗は反発、主導権を掌握した日本が露独仏の三国干渉により後退するのを目の当たりにし、ロシアを引き入れて日本を牽制する外交政策を模索しますが、危機感を覚えた日本は明成皇后を殺害する乙未事変を起こし親日内閣を成立させます。

断髪令が実施され、高宗と純宗が模範を示しサントゥ髷を切りました。
 
<高宗と純宗>
 
軟禁状態の高宗はロシアと米国の外交官と接触し、1896年2月ロシア公使館に脱出(アグァンパチョン俄館播遷)します。
 
高宗がロシア公使館に避難中、朝鮮内外で外部勢力の干渉を防ぎ、自主的近代国家を立てようという主張が巻き起こりました。
ここに彼は1年ぶりに慶運宮に還宮、国号を「大韓帝国」とし皇帝を名乗りました。
 
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年号を光武に直し、光武改革を実施しましたが、これは専制王権強化を目的とし、改革に逆行する流れで途中頓挫しました。
 
その後議会設立運動を行なった独立協会万民共同会を武力解散させ民権運動を弾圧し、自らの墓穴を掘る結果になります。
この間も日本とロシアの葛藤は深まり、1904年日露戦争が起こりました。
 
日本は再び宣戦布告も無いまま満州のロシアの軍隊を攻撃し中立を宣言した韓国を強制的に同盟に引き込み、ロシア国内の革命に乗じてアメリカの仲裁の下ポーツマス条約にて朝鮮への優位権を手にしました。
 
<日露戦争 風刺画>
 
寝耳に水の高宗は、1905年日本の乙巳保護条約の強制に断固とした態度を取らず大臣に一任する中途半端な態度で、図らずも条約締結の手助けをする羽目になります。
 
国内で反対運動が盛り上がり、義兵活動も活発化しますが、高宗は日本と戦おうともせずに条約を黙認しました。
 
乙巳保護条約は単に外交権を奪われたと言うレベルでは無く、事実上の「大韓帝国」の終焉でした。
高宗が露骨に助けを求めていたアメリカ・イギリスなどの国々も冷淡な反応を見せ大使館を早々に撤退させてしまいました。
 
 
この様に国際社会にとうに見捨てられたにも関わらず高宗は懲りずに西欧列強にあくまで望みを賭けます。
彼は1907年オランダで開催された万国平和会議に密使を送り「ハーグ密使事件」を起こし皇帝の座を強制退位させられます。
 
丁未7条約を締結し朝鮮軍隊を解散させられました。
最終的に1910年500年の歴史を誇る朝鮮王朝は正式に滅亡しました。
彼は束手無策のまま李太王と言う称号と爵位を受け無為な日々を過ごしました。
 
 
何度目かの亡命企図を妨害されるかの様に1919年1月彼は不審な急死を遂げます。
毒殺と見られて居ます。
 
彼の死をキッカケに朝鮮最大の反日独立運動「三・一独立運動」が朝鮮全土を揺るがし、我が国は近代史を終え現代史へと突入する事になります。
正に彼の長い人生と共に波瀾万丈な歴史は終わりを告げたのでした。
 
<3.1運動>
 
次回以降時代は戻りますが1894年の甲午農民戦争以降活躍した人物、まずは1897年独立協会万民共同会運動で活躍した人物を巡りたいと思います。
 
<参考文献>
한국민족문화대사전
나무위키 
 

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