ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
150.チェククエ책쾌
 
 
 
 
ドラマ仮面の王イソンを観ていると、
「お前は誰だ?」との問いに主人公の世子が
「我はチェククエ책쾌で有る」と名乗る場面が有りました。
今回はこのチェククエ冊儈について見たいと思います。
 
 
チェククエとは朝鮮王朝時代の本のセールスマンですが、卸売りを兼ねたブローカー的な存在と言えるでしょう。
今で言うBOOK OFFや古書店の様な仲買人と言えるかも知れません。
 
쾌クェ儈(イ:にんべんに会の字)と言う言葉は以前不動産屋のポクトクパン福徳房でも登場しますが、仲介人を指します。
 
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16世紀初めにキムフン金訢が著した書籍に「メソイン売書人」と言う名前でチェククェが初めて登場します。
 
その後壬辰倭乱前1567年(宣祖1)にチェククェの存在とその営業方法を把握出来ます。
人々はチェククェを通じて本を入手、チェククェは書物を半値で買って定価で売る方法で利益を得ました。
彼らは本を売り買いしたい人が居れば何処でも行ってマーケティングをしました。
特に社会の中・上流層の知識人など私的に書籍の購入を希望する人々が主な顧客でした。
 
 
チェククェは家ごと歩き回って、新しい本を真っ先に持って行きました。
顧客が必要とする本の情報を聞いて十分相談した後、知識人の読者が当時関心を持つ書籍の中で簡単に入手する事が出来ない本を手に入れてくれたりしました。
 
従ってチェククェは書物の書誌事項と内容に精通して、最小限の文字読み取り能力を持っている必要があります。
 
 
彼らは「闕里誌」・「天源發微」などの中国の書籍や、「国朝宝鑑」・「太平通載」など国内書籍を全て取り扱いました。
中国の書籍は16世紀から公式あるいは非公式ルートを経て国内に流入しました。
書籍の輸入は通訳が引き受け、チェククェは入って来た書籍を国内に流通させる役割を担いました。
 
 
16世紀末から17世紀初頭に掛けては壬辰倭乱丙子胡乱などの戦乱により我が国の書籍の流通が萎縮されたので、むしろ中国の小説や書籍が流入する事が多く、彼らチェククェの活動は以前よりも活発になりました。
 
朝鮮後期になると書籍を商品として認識するようになり、本の商業取引が行われ始め、
それに応じてあちこちを歩き回って、顧客と交渉して書籍のマーケティング仲介する商業流通業者チェククェ冊儈が本格的に登場します。
 
朝鮮王朝時代においては、本を重視したのに比べ、まだまだ書店やセチェク貰冊業(貸本)が発達しておらず、地域間の交流や流通も活発では無かったのでチェククェが書籍の需要と供給に寄与した部分が大きいです。
 
 
彼らは今日の専門的な知識を備えた「総合書籍販売業者」と言えそうです。
 
セチェクチョム貰冊店(貸本屋)は18世紀以降ようやく登場し、民間の書店は19世紀に入ってようやく初めて本格的に設立されます。
その様な状況下でチェククェは国家の検閲と統制の下、個人的に書籍をやりとりして情報を共有する仲介人の役割を担当したと言えます。
 
チェククェはソクェ書儈・書冊儈・チェクゴガン冊居間などとも呼ばれました。
 
チェククェは漢城(ソウル)だけで活動した人々も多く存在しました。
 
 
その中の代表的な人物がチョソンシン曺神仙で、彼は多くの本を袖に入れ、城内を歩き回りながら、必要に応じてすぐに本を取り出して取引をしたそうです。
さらに彼は「博雅な君子」と呼ばれる程、
本の著者・巻数・冊数・目次などの書誌情報は勿論、本の所蔵者や所蔵年度まで把握して居たと言います。
 
それに比べて、ソウルと地方を行き来しながら取引するチェククェや、地方都市だけを集中的に回って営業する人も居ました。
 
 
彼らは主に地方の市場や、地方に居住する知識人や両班家を歩き回って書籍を取引しました。
英祖時代には不穏書籍が地方に流通しない様に、捕盗庁でチェククェを徹底的に調べてその様な書籍の流通を禁止したと有りますから、この事実を見てもソウルと地方を行き来しながら本を流通させたチェククェの存在を確認する事が出来ます。
 
この様に本の仲介だけを専門にした彼らを
「専門型チェククェ」と呼べます。
 
書籍販売の他、他の業種まで兼ねるチェククェも居ました。
彼らは書店や貸本屋、印刷所など出版と流通に従事しチェククェの役割もした
「兼業型チェククェ」と言えます。
 
 
更には両班にも関わらず、生計を維持する為に一時的にチェククェの役割をした人も居ました。
英祖代の両班李亮濟や、読書と学問に力を注ぎつつも家が貧しくて筆店や本屋がある通りを通って生計を維持したホンユンス洪胤琇の様な例を挙げる事が出来ますが、
彼らは「知識人型チェククェ」とする事が出来るでしょう。
 
 
18世紀はチェククェの最盛期で、ソウルだけで数百人のチェククェが活動しました。
1771年(英祖47)にはチェククェが不穏書籍や中国の特殊な書籍まで流通させた事実が明らかになり、100人ものチェククェが処刑されて居ます。
 
英祖正祖期は訳官の書籍の輸入が禁止されたり検閲が強化され、書籍の流通が萎縮される事も有りましたが、しばらくして再び活気を帯びる様になりました。
朝鮮時代後期の蔵書文化はチェククェを介して形成されたとしても過言では有りません。
 
 
19世紀後半から20世紀初頭には、近代書店が登場するだけでなく、様々な媒体を介して知識を習得する事が出来るようになり、私的に本を取引することが次第に減少しました。
それに応じて、彼らは20世紀前半になると通常学者や文人、識者層などの一般の人が入手が困難な古書や古文献資料を入手する営業をして居ます。
 
チェククェはこれら学者や専門の研究者、図書館、古書店などを相手に古文書を取引する事により、意図せず散在していた書籍を集める役割をも果たしました。
 
 
以上の様にチェククェは読書層形成と書籍出版の形成に少なからぬ影響を及ぼし、朝鮮時代後期に起こった知識の普及と伝播、読者層の拡大などに大きく貢献しました。
 
 
<参考文献>
한국 민족문화대사전 
나무위키 
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