<ドラマ 客主>
 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮歴史のトリビア>
149.壬午軍人暴動(壬午軍乱)
 
 
 
 
以前レビューしたドラマ「客主」の終盤で、
主人公ソウル商人たちが漢城(ソウル)で民衆が起こした戦いに巻き込まれるさまがとても詳しく描かれて居て、思わず身を乗り出しました(笑)。
 
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この戦いはイムオ(イモ)壬午軍人暴動(壬午軍乱)と呼ばれる重要な事件ですが、
上記のドラマとドラマ「明成皇后」以外
滅多に描かれる事が有りません。
 
 
前回大院君の生涯を紹介しましたが、彼に取っても大きな屈辱となった事件です。
今回はこの様に我が国に於いて重要なターニングポイントとなった壬午軍人暴動を取り上げます。
 
壬午軍人暴動(壬午軍乱)
1882年(高宗19年)7月23日、旧式軍隊が別技軍(近代新式軍隊)との差別に抗議して
起こした軍乱です。
その後漢城の市民蜂起に発展しました。
 
言わば朝鮮王朝が滅亡の道を歩く本格的な出発点となった事件です。
また、朝鮮半島の歴史の最初で最後、君主が住む宮殿を軍と民衆が直接襲撃した事件です。
 
 
1876年日本との不平等条約である江華島条約を結んだ朝鮮王朝は門戸を開放する事になり、それによって進歩的な開化派と保守的な守旧派間の葛藤はさらに酷くなりました。
 
一方朝鮮政府は、既存の5軍営を2営に統廃合し、日本の後援の下「別技軍」と呼ばれる新式軍隊を創設し、日本人教官の指導の元、訓練を実施します。
2営の旧式軍人たちは別技軍に押され差別を受ける事になり、
ついには給料さえ13ヶ月も支給されない状況に陥りました。
これに兵士たちは、日本を背負った別技軍とそれを優遇する朝廷に反感を抱きます。
 
<別技軍>
 
その中でも高宗は世子嬪の嘉礼のため大量の絹を日本の会社から購入するなど巨額のお金を費やしました。
 
1882年ソンへチョン宣惠庁に漕米が到着して旧式軍人に溜まった給料の内1か月分を支給する事になりましたが、腐った米ぬかと砂が混じって居たので旧式兵士たちはキムチュンヨン金春栄リュボクマン柳卜萬らの主導により集団で俸禄受領を拒否し、宣惠庁に行き新たな米を要求しました。
 
支払い担当者が軍人を侮辱して刺激したので兵士たちの怒りが爆発してソンへチョン官吏を殴打しました。
 
この様に事態は悪化して行きますが、朝廷では原因を正確に把握して居たにも関わらず何の措置も取りませんでした。
特に宣惠庁の責任者ミンギョムホが主導者を拘束して軍人たちの怒りがさらに沸騰し、事件がさらに大きくなってしまいました。
 
<旧式軍人>
 
事件は給料の問題に起因するので、以前の民乱同様「貪官汚吏は処罰するから、解散して家に戻れば主導者を除いて責任を問わない」と言うのが普通であり、そうすれば民衆も殆ど納得して自主解散する問題でした。
 
支給が13ヶ月分の給料の1ヶ月になったのは明らかに米がない証拠ですが、米がない理由を説明すると
日本との「朝日貿易章定」という経済条約を結ぶ際、「穀物の無制限流出を防ぐ」と言う文言を挿入しなかった大きなミスを犯した事に原因が有ります。
 
当時相当量の米が日本に流出し、
米を生計の手段として使用する昔ながらの民衆にとって脅威となって居ました。
 
また籾殻や砂が混合した事実は、 そもそも横領が明らかだった事を物語り、当時の朝鮮王朝の財政不足と不正腐敗が如何に深刻だったかを示します。
 
 
朝廷ではこの問題を原因と結果まで完全に把握して居ましたが、責任者の処罰はおろか、きちんとした解決さえしない非常識な対応で一貫しました。
 
暴行事件を起こしたキムチュンヨンリュボクトンと兵士たちは捕えられましたが、彼らを死刑にすると言う噂が流れます。
 
これに対し旧式兵士たちはキムチュンヨンの父とリュボクトンの弟の主導で、それらに同調する漢城の市民と力を合わせミンギョムホの自宅を襲撃し、興宣大院君を訪ね協力を要請しました。
大院君は事態を掴む為彼らに解散を命じ、自分の腹心ホウク許煜を兵士として侵入させ軍人たちの指揮を引き受けました。
 
 
6月9日彼らの指揮下に旧式兵士たちは別営の武器庫を壊し武装し、捕盗庁、義禁府を襲撃して捕えられた軍人や全ての囚人を釈放させ、ミンテホなど閔氏親戚と開化派人物の自宅を襲撃しました。
 
彼らは京畿監営を掌握して武器を握り民衆まで武装させて、嫌悪の対象だった駐朝鮮日本公使館訓練都監を襲撃して別技軍教官堀江を始めとする教官を襲撃して殺害、別技軍部隊を急襲して一部を殺害するなどしました。
 
<逃亡する日本公使の錦絵>
 
彼らはこれに終わらずその翌日の6月10日、大院君の支援のもと暴動を起こした民衆と合流し、閔氏一派を処断する為、一気に昌徳宮内に侵入しました。
宮城に入った軍民は宮殿の中まで入り元凶であったミンギョムホ、京畿道観察使キムボヒョン金保鉉などを殺害し、実質的に全ての源である王妃明成皇后を見つけて殺そうと探しました。
 
<映画での明成皇后脱出場面>
 
このとき王妃明成皇后は宮女の服を着て女官に変装して洪啓薰の助けを借りて宮殿を脱出する事に成功、忠州長湖院に避難しました。
 
高宗は事態収拾のために、最終的に大院君の出廷を要請、彼は旧式軍隊の護衛の下出廷し再び興宣大院君の摂政統治が始まりました。
軍人と民衆は大院君が現れるや万歳を呼び、彼はそれをいなし彼らを解散・帰宅させました。
 
大院君は摂政統治を始めるや閔氏支持者を全て罷免・処罰し、軍人の遅れた給料も全部支給するなど旧式軍隊に対する優遇を強化しました。
更に以前自分を支持した人物を大挙起用して官僚に登用するなど、高宗が施行した部分を全面改正しました。
一方明成皇后が出て来れぬ様、彼女を「死亡」と公式宣言して国喪を宣言しました。
 
<ドラマ明成皇后の王妃>
 
これで事件はある意味、終息しそうでした。
しかし、高宗・明成皇后は清軍の派兵を要請します。
 
要請により清国は朝鮮に軍隊を派遣、大院君が清軍の軍営を訪れた隙に拉致監禁、その日の内に天津に彼の身柄を送ってしまいました。
これにより摂政統治は覆され、明成皇后は再び宮廷に戻りました。
 
興宣大院君を拉致した3日後の7月16日、清軍は昔ながらの兵士が多く住む往十里梨泰院洞を襲撃して170人を逮捕、反乱を主導したとして11人を処刑しました。
 
 
一方公使館と国民が被害を被った日本は、朝鮮への即時賠償責任と補償を要求、最終的に朝鮮との間で済物浦条約を締結して、全ての被害を補償させました。
日本はこれを契機に朝鮮の自国公使館に警備兵を駐留させ警戒を強化、首都漢城に日本軍が進駐する始まりとなりました。
 
壬午軍乱は旧式軍隊の反乱で始まりましたが、その矛先が日本へと向かい首都漢城市民の反帝反封建闘争に発展しました。
この事件で朝鮮王朝が回生不可の状態である事が近隣に大きく暴露され、最終的に清国と日本の朝鮮への影響力が拡大されてしまいます。
 
ここに他国軍を引き入れる反民族行為が始まりましたが、甲午農民戦争同様、高宗の責任が限りなく大きいと言えるでしょう。
 
<ドラマ 雲と風と雨>
 
その後の事件が余りにも劇的だった為、つい端折られる事の多い事件ですが、本格的な朝鮮の植民地化の始まりになったとも言え、2年後の1884年甲申政変の火種になった重大な事件でした。
 
先に挙げたドラマでも史実に忠実に描かれて居ますので、この時期について知りたい方はぜひご覧下さい。
 
 
<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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