<朝鮮推理活劇 丁若鏞>
 
第6章 朝鮮の人物-42  近世26
丁若鏞チョンヤギョン
 
 
 
 
英祖、正祖と朝鮮王朝最後の黄金期が続き、いよいよ朝鮮近世も暗黒期に突入ですが、その前に我が国近世で誇れる実学者たちを、まず今回はその中で正祖が心から愛した丁若鏞チョンヤギョンを紹介したいと思います。
 
実学については以前ワンポイントコラムにて述べました。
他の有名な実学者たちについても簡単に紹介して居ますのでご覧下さい。
 
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彼らはあくまで儒教の枠の中で改革を主張した思想家と言えます。
 
しかし「実事求是」の思想の元、民本と為民を唱えた彼らの学問は周囲に強い影響を及ぼし、朝鮮王朝社会の発展に大きく寄与しました。
 
 
今回紹介するチョンヤギョン丁若鏞は毎度お馴染みの枕詞(まくらことば)で恐縮ですが、実学を集大成した百科全書的大家』として南北朝鮮双方に於いて高い評価を受けている学者です。
 
彼は英祖思悼世子を米櫃に閉じ込め殺した壬午禍変が起きた年で有る1762年、京畿道光州府で4男の末っ子として生まれました。
 
字はミヨン美鏞·ソンボ頌甫、号はタサン茶山が一番有名で一般的にチョンダサン丁茶山とも呼ばれて居ます。
他にも三眉·與猶堂·俟菴·紫霞道人·籜翁·苔叟·門巖逸人·鐵馬山樵など沢山有ります。いえ、有り過ぎです(笑)。
 
<6代孫 チョンヘイン>
 
子供の頃の性格は非常に物静かだったと言います。
幼い頃に天然痘に掛かり顔に痕が残り眉毛が3つに見えた事から三眉と仇名(あだな)されたそうです。
それを号(ペンネーム)にしてしまうんですから粋ですね。
 
彼は色白で正祖が惚れ惚れする程のイケメンだったそうです。
余談で以前にも述べましたが、人気俳優チョンヘインが彼の直系6代孫で顔が似ているそうですので重ねて見て下さい。
 
 
1783年科挙初試に合格、1784年カトリックに接し興味を持ちます。
成均館儒生時代に成均館の優秀な学生を集めて賞を与えるイベントで正祖丁若鏞を見初め、詩を良く作らせたそうです。
 
しかし南人派に属して居たせいも有り、中々殿試(最終試験)にて合格出来ず出仕は遅れました。
 
そしていよいよ1789年式年文科に甲で合格して官吏に登用されましたが、カトリック信徒と弾劾されてヘミ海美に流刑され10日ぶりに解放されました。
 
禧陵直長就任を皮切りに官職を歴任します。
10年間正祖の特別な寵愛の元、彼が務めた官職は藝文館檢閱、司諫院正言、司憲府持平、弘文館修撰、京畿暗行御史、司諫院司諫、同副承旨、左副承旨、谷山府使、兵曹參知、副護軍、刑曹參議と斯(か)くも多きに渡ります。
 
<コジュンギ 挙重機>
 
1792年には正祖からの命により、清から輸入した機器図説を研究、これを基にコジュンギ挙重機ロクロ轆轤を発明制作し、西洋式の城壁を築造して居たスウォンファソン水原華城の築城に大きく寄与しました。
 
1794年には同じく正祖の命を帯び京畿道にアメンオサ暗行御史として京畿道観察使のソヨンボらの不正を告発してその地位を剥奪するなど大きく活躍しました。
 
<水原 ファソン華城>
 
しかし余談ですが、この人物はその後見事に復活して44歳の若さで右議正に上り、純祖貞純王后の寵愛を得て文字通り死ぬまで丁若鏞を苦しめる事になるのが皮肉です。
 
後半生に於いて、彼を1番寵愛して重用した正祖が世を去ると1801年(純祖1年)慶尚道チャンギ県に流刑されました。
 
朝廷ではチョン兄弟を除去しようとしましたが、他の兄弟とは違い丁若鏞はカトリックを否定して死刑を免れ流刑に代わりました。
 
<雲が描いた月明かり 他>
 
以降丁若鏞の長兄の婿である黃嗣永が、西洋と清国が武力で朝鮮王朝を打倒して信仰の自由を得る事を要請した「黃嗣永 帛書 事件」に関与したとして全羅道カンジン康津に再度流刑されました。
 
そこで彼は18年もの間、赦される事無く忘れ去られ流刑生活を送りました。
それは華麗に復活を遂げた先のソヨンボが彼の復帰を猛烈に反対したからでも有りました。
 
しかし流刑地が彼の母方の実家の有るカンジン康津で、実家の蔵書の量も尋常では無く多かったので流刑から解放される迄の18年の間、彼は学問に没頭する事が出来ました。
 
 
18年にわたって多くの著書を残した彼ですが、研究の成果は流刑後半に脱稿した物が多いと言われます。
 
丁若鏞を攻撃した老論ビョクパはその後没落しましたが、当時の政局は「嵐の巻き起こりの繰り返し」で、彼の流刑を忘れてしまって居ました。
1818年8月に18年の流刑を終え故郷に戻り著述活動に努めながら余生を過ごし、1836年2月にこの世を去りました。
享年74歳でした。
 
正祖とは正に昵懇(じっこん)で、若い頃から酒の席や個人的な話しまで常に彼を呼び親しんだと言います。
 
 
彼は生存時500巻もの著書を著しました。
有名な所で「經世遺表」「牧民心書」「欽欽新書」そして「與猶堂全書」が有ります。
 
丁若鏞儒学者兼実学者(兼政治家、刑事、裁判官)とも言え、法医学、地理学、医学、言語学、児童教育学、筆力にも優れた作家兼詩人、建築家でも有りました。
正に万能なプロフェッショナル、オールラウンドプレイヤーでした。
 
丁若鏞は果敢な政治改革案を打ち出して居ます。
彼は封建的統治体制の跛行(はこう)的運営によって生じた弊害を、諸制度の改編により最大限に防ぐ意図を持って、政治の分野での改革案を提示しました。
少し長くなりますが、簡単に整理しましたのでご覧下さい。
 
<成均館スキャンダル>
 
以後見ますが、正祖亡き後の19世紀に至って政治運営が少数の門閥勢力が権力を独占する「勢道政治」に変わり国の綱紀の乱れや官僚体制の腐敗、激しい社会経済的混乱が生じました。
 
⑴これを正すために丁若鏞は官僚機構の改革案を提示しました。
例えば彼は、備辺司を廃止して中枢部を実職化させる事を提案して居ます。
同時に、これまで備辺司が掌握していた国務処理機能を議政府に回復させ高位官職の人事権を付与する事により、議政府が名実共に官僚機構の中心となる行政システムを構想しました。
 
⑵また、彼は改革にふさわしい新しい官僚を選抜する為、科挙改革論を表明しました。
受験制度を改め、科目も大幅に増設し、中国史はもちろん我が国の歴史、官僚の実務行政に係る雑学、体力の鍛練を要する試射などの追加を提案して居ます。
 
 
⑶丁若鏞は孔子の提唱した原始儒学に立脚した王道政治論の次元で社会改革論を提起しました。
 
(4)-❶彼は古代の「井田制」の実施を主張、税と徭役を均等にして民生を保護する事を提示しました。
全体的に彼の土地改革論は商業利益と「資本主義的」経営を前提として農民に土地を与え、両班と商工層を排除して農業を通じた商業的利益を追求しようと言う改革案でした。
 
(4)-❷丁若鏞は商業と手工業の分野に関しても改革を提案しました。
彼は貨幣の流通政策に積極的で、鉱業の開発問題にも関心を持ちました。
手工業分野にも大きな関心を持ち、立ち遅れた国内技術を発展させ生産性の向上を目指し先進技術の果敢な導入を主張しました。
貨幣鋳造のシステムを一元化して、高額コインおよび金・銀貨の鋳造を提案しました。
鉱業改革論では鉱業の官営化や国営化の必要性を強調し、鉱業制度の運営を改善する方策を提示しました。
 
<チョンヘイン>
 
(5)丁若鏞は王道政治の理念と朝鮮社会が直面していた現実の省察に基づいて一連の社会改革論を展開しました。
社会身分制度の矛盾性を指摘し、社会的分業に近い概念で朝鮮社会を再編しようとしました。
彼は「士農工商」の身分制度を廃止して「士農工商圃牧虞嬪走」の9職に分けて社会的分業を行う事を提案して居ます。
 
彼は人間の本質的平等に関しては認めましたが、身分間の位階秩序はある程度必要だと見て、支配階級としてのリャンバン両班階級の指導を認めるなど思想の限界をさらけ出しては居ます。
 
<映画 風と共に去りぬ⁉︎>
 
彼ら実学者の理論は、身分制を撤廃して社会的平等を主張する段階にまで至って居らず、王道政治の理念に基づいて朝鮮後期の社会の不平等性についての問題意識を持ち、矛盾的な状況をどうにか改善させようとしたのです。
そう言った意味でヨーロッパの啓蒙思想家などとは異なり、あくまでも儒教の範囲内で王朝制度を改革しようとした事が分かります。
 
以上簡単に見ましたが、丁若鏞は当時の社会が直面していた封建的矛盾の改善を幅広く提起した思想家で有り、時代的制約が多々有るにせよ実学思想の集大成者で百科全書的な改革思想家と評価されて居ます。
 
 
ドラマや映画にも多く出演して居ます。
ドラマ「イサン」「雲が描いた月明かり」「成均館スキャンダル」などでも重要な役で登場します。
2018年にKBSで「茶山 丁若鏞」が36部作で放映される予定でしたが霧散し残念です。
2021年に彼と彼の次兄チョンヤクチョンを描いた映画茲山魚譜 チャサンオボ』が公開され好評でした。
 

 

正祖を描いた史劇には傍に必ず彼が登場する筈なので注意してご覧下さい。
引き続き実学の大家たちを紹介して行きます。
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
나무위키
 

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