第6章 朝鮮の人物-31 近世15
リスンシン李舜臣❷
リスンシン李舜臣については、私の中で何年に一度マイブームが起き、彼に関する記事などをトコトン隈なく探りたくなります。
どれだけ読んだ事か(笑)。
今では彼の人生をソラで吟じる事が出来そうです(笑)。
いっそ講釈家にでもなって講談会を開きましょうか?
イエイエ、多分私より詳しい方たちがいらっしゃるので物足りない事でしょう(笑)。
彼については第一次史料「乱中日記」から「朝鮮王朝実録」を始め日本側の資料まで豊富に存在し、細かい事柄まで手に取る様に把握出来ます。
少し前にも彼が苦しんでいた慢性の病気が胃潰瘍だったとの研究が有りました。
細かい検証が積み重なるのは彼を多面的に理解する上で非常に有効です。
しかしそれにも増して思うのは、これ程史料が豊富に存在するにも関わらず、否 存在し過ぎるせいかも知れませんが、韓•日での歴史評価が異なると言う現実です。
百戦錬磨の軍事の神サマの如く扱い、貶した日には恐らく生きて外を歩けないであろう韓国と、恐らくネトウヨさんが主に執筆して居るであろう日本のWikipediaとの落差は激しく、お互いナショナリズムと言うフィルターが掛かってしまって居る為か中々冷静な研究が行えない状況です。
色んな史料を持ち寄って付け合わせて、フィルターを取り除いた研究がなされ、歴史合意がなされる事を切に望みます。
前回の続きです。
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1597年明・日の間の講和会談が決裂、本国に渡った日本軍が再び侵入して丁酉再乱が起きました。
李舜臣は敵を撃滅する機会が再び来た事を喜び、戦いに万全を期しました。
しかし、元均の計略と日本軍の謀略が彼を襲います。
小西の部下で二重スパイのヨシラ要時羅が慶尚兵使キムウンソ金應瑞に「加藤淸正が海を渡って来るので水軍をここに引き付ける様に。」と密かに知らせて来ました。
これに対して朝鮮政府は統制使の李舜臣に実行する命を下しました。
これは敵の巧妙な罠で有る可能性が高く、彼は熟考した上でやむなく出動しましたが、加藤は既に数日前に海を渡った後でした。
この事に対し朝廷では意見が紛糾しました。
以前にも述べましたが、宣祖執権期には党争が不毛の争いを開始して久しく、領議政で有るリュソンリョン柳成龍を追い出そうとする輩は彼の推挙する人物から弾劾を開始します。
また、慶尚右水使 元均は露骨に彼に不満を持ち、彼を非難する狀啓장계(報告書)を立て続けに出しまくりました。
元均の訴えは被害妄想から出た物で、李舜臣が元均の手柄を横取りして居ると言う内容でした。
そもそもの発端は元均が戦いの報告(狀啓장계)を合同で出そうと言う提案でした。
朝鮮王朝には合同で報告書を上げる習慣は無く、彼はもちろん断固として拒否して単独で報告書を上げますが、それに対して逆恨みして李舜臣が挙げた戦功を自己の成果の如く報告し、彼を非難しました。
詳しく述べる余裕は有りませんが、朝鮮王朝は徹底した報告・記録国家で有り、沢山の第三者の意見を検証して報告を吟味して決裁するシステムが完備しており、たとえ李舜臣だとしても第三者の証言と一致しない狀啓は認められません。
なので双方の主張の判断は第三者がする事で有り、李舜臣が手柄を横取りする事は出来ないにも関わらず元均は、一方的に手柄の横取りを図り朝廷の顰蹙(ひんしゅく)を買い何度か左遷されて居ます。
しかし上訴を受けた嫉妬深い宣祖は実情を正確に把握しようともせず、元均の上訴だけを信じて大きく怒り、彼が自己の命を守らず出撃を遅延して居ると言う濡れ衣を着せ罪に問い、元均に職を代わらせました。
彼に取っては当面の敵より、人望の厚い李舜臣が尚の事脅威で有った事でしょう。
柳成龍は最後まで「統制使の適任者は李舜臣しか無く、もし閑山島を失う日には湖南地方も守る事が出来ません。」と懇願しましたが、前々回述べた様に情勢判断に疎く自己の保身しか考えて居ない疑心暗鬼の塊で有る宣祖がそれを受け入れる筈有りません。
とうとう李舜臣を破職すると言う命令を下しました。
この時、彼は戦船を率いて加徳島沖に居ましたが、このニュースを聞き本営に戻って陣の整理を整えすぐさま元均に職位を引き継ぎました。
当時閑山島だけでも軍糧米が9,914石有り火薬は4,000斤、銃筒は各船に積載した物以外に300丁有りました。
李舜臣が漢陽(ソウル)に護送されると通りのあちこちに老若男女を問わず民が集まって慟哭しながら
「将軍は私たちを置いて何処に行かれるのですか?
もう私たちは死んでしまいます!」と地を打ち嘆きました。
彼・李舜臣は既に海戦で輝かしい功績を立てて国を危機から何度も救って居るにも関わらず、1月余りの間に厳しい反逆罪の訊問と拷問を受けました。
しかし、彼は人になすりつけたり貶す言葉は一言もなく、一部始終を一つ一つ反論しました。
尋問で体が極度に衰弱しましたが、右議政チョンタク鄭琢の積極的な弁護も有り、都元帥クォンリュル權慄の幕下に入って第二回目の白衣従軍(平の軍人となる)の命令が下りました。
南海岸に向かっていた彼は途中で母の死亡の消息を受けます。
そして「世界天地で私の様な経験をする事が有るだろうか。
敢えて死ぬ以上辛い事だ。」
と嘆いたと言います。
しかしその年の7月、三道水軍統制使を引き継いだ元均は敵の誘引戦術に引っ掛かり巨済島のチルチョンリャン漆川梁海戦で全滅に近い大敗北を喫し、本人も行方不明に陥る不名誉を被ります。
彼・李舜臣が丹精込めて培ってきた無敵艦隊はその形跡すら見るも無残に全滅し、我が軍の軍備はその姿形を留める事すら不可能になりました。
李舜臣は草溪でこのニュースを聞いて
「我々が信じたのは唯(ただ)水軍だが、この状態になり再び希望を持つ事が出来なくなってしまった」
と号泣したと言います。
元均の敗戦が朝廷に伝わると朝野が驚き全てが途方に暮れました。
王宣祖は慌てて大臣を呼んで相談しましたが返事も無く、ただ彼を再び統制使に起用する事を主張するのみでした。
こうして、朝廷を欺瞞して王を無視した罪、敵を討伐せずに国を捨てた罪、他人の功を奪い謀略した罪、自惚れて謙虚さがない罪など多くの罪名を被せて殺そうとまでした彼を再び統制使に起用する事になりました。
宣祖も言い訳する言葉が見つからなかったのか敎書で「前回、朕が官職を奪い罪を与えたるはまた人が成した事で良く分からずした行為で有り、今日の敗戦の恥を見て何を言わんや」と誤魔化しました。
統制使に再任され、南海などをあまねく調べましたが、残りの軍は120人の兵船12隻が精一杯でした。
しかし、失望せずに朝廷の引き止めにも関わらず、水軍として敵を迎え戦うことに決めました。
宣祖の水軍解散勧告に対し「臣尚有十二隻」(臣には未だ船艦12隻が有ります)の言葉が有名ですが、諦めず最後まで最善を尽くす代名詞として使われます。
戦いに先立ち将兵に必勝の信念を呼び覚まして、8月15日13隻(1隻追加)の戦船と弱体化した兵力を率いて鳴梁ミョンリャンで133隻の敵と対決します。
鳴梁はウルドルモクとも呼ばれ潮流が早く流れの変化が激しい難所です。
多勢に無勢の状況突破には捨て身の覚悟が必要と、彼は悪条件を味方につける作戦を立てます。
いよいよ彼の名高い3大海戦のひとつミョンリャン鳴梁海戦の始まりです。
この闘いを述べているとそれだけで一本の短編小説が書けてしまえそうなので省略しますが(笑)、この海戦について映画「バトルオーシャン」に詳しいです。
↓↓映画レビューはコチラ↓↓↓
今も韓国映画史上最大動員数を死守して居るこの映画を以前にも何度か紹介して居ますが、ほぼ史実通り描かれており、人物造形など甘い部分は有れど大迫力の海戦シーンは実に見物で是非鑑賞をお勧めします。
出来れば私も映画館の大画面で観て見たいです。
この海戦で敵船31隻を壊す大きな戦果を上げました。
これをミョンリャンテーチョプ鳴梁大捷と呼びます。
この勝利は再度統制使に赴任した後の最初の大勝で、水軍を回復させる為の決定的な役割をした戦いでした。
鳴梁大捷により再度制海権を取り返した我が軍は翌年2月にゴグムド古今島に軍営を移し、軍鎮を取得し民を募集して広く屯田を耕作させ、オヨム魚鹽(魚や塩)も採取するなど活動を再開しました。
これにより将兵たちが再び集まって難民も列をなして戻って来て、数万人が列を成し、軍鎮の威容も以前閑山島時代に比べて10倍を越える成果を挙げました。
ちなみに日本では彼の戦勝を悉(ことごと)く否定し、鳴梁大捷以後朝鮮水軍が逃げまどい、日本が西海の制海権を握った如く記述する説明が見られますがこれは不正確な見方で、少ない兵力で多くの戦力と戦う為にはゲリラ戦より他に方途は有りません。
それら倭船が追跡で西海の島々を侵犯しても遠征しただけで根拠地を作らなければ制海権を握ったとは言えません。
我が軍は少ない兵力だった為、この時期は退却しつつ近隣の軍民を鼓舞し陣地を作り再び兵力の確保を成し遂げた期間と言えるでしょう。
事実、短期間に兵力を回復させて制海権を譲ってはおりません。
この様に短期間に制海権を回復して水軍を再起させる事が出来たのはひとえに彼の個人的な能力による賜物と言えそうです。
そしていよいよ運命の日がやって来ました。
秀吉の死を受け、倭軍はそれをひたすら隠し、1598年11月19日露梁に、退く為に500隻の敵船が集結しました。
戦いを避けようとする明の水軍提督陳陳璘を説得して彼は攻撃に出ました。
艦隊を率いて退く敵船に向かって猛攻撃をし、これを防ぐ余裕が無かった日本軍は多くの死傷者と船艦を失いました。
<ロリャン海戦図>
李舜臣の最後の闘いロリャン露梁海戦でロリャンテーチョプ露梁大捷です。
しかし、船頭に出て敵を指揮している途中悲しみが我が軍を襲います。
彼が敵弾に当たったのです。
ちなみにこの事実をどう理解するか色んな説が有り入り乱れて居ます。
流弾に当たった説、自殺説、敗北説など。
特に日本ではネトウヨが彼の敗北だと騒ぎ立てます。
しかし、近代以前の戦闘では指揮官が先頭で戦う事は通常で、特異な事では有りません。
特に海上、船での戦いは敵我軍入り乱れ戦況も把握し辛い混戦です。
実際朝鮮•日本•明の戦争記録はその記録によって数がまちまちで、どう見るのか開きが有り過ぎます。
しかし我が軍の戦船より多くの倭船を破壊した事に変わりは有りません。
どうあれ全ての記録を総合すると、少ない兵力で彼と朝鮮水軍が日本軍と互角の戦いをした事は李舜臣率いる朝鮮水軍の勝利と呼べるのでは無いでしょうか?
彼は死ぬ瞬間まで 「戦いが正に火急なので私が死んだという話を控えなさい。」と諭し、静かに目を閉じました。
運命を見守っていた甥っ子リワン李莞は悲しみに耐えられず号泣しようとしましたがリムンウク李文彧がやめさせて服に体を覆い見えなくして、太鼓を叩いて前に進み戦う事を促しました。
彼らは影武者となり、軍民は統制使が死んだと言う事実を知らないまま奮戦して退く日本軍を大破し、闘いを終えました。
闘いのち訃音が伝播されると全ての軍民が悲しみ、船艦や山河が彼らの慟哭で激しく震え、泣き声がいつまでもこだましたと言います。
こうして李舜臣は勝利の日を見る事も無く、人々に称えられる事も無く静かにこの世を去りました。
彼のこの上ない忠誠心、崇高な人格、偉大な統率力は壬辰倭乱の中で最も優れた武将として大きな功を収め、危機に瀕した国を救っただけで無く、民族史にその名を永遠に残す存在として今も人々の尊敬を受けて居ます。
彼に対する賞賛は枚挙にいとまが有りませんが、世界的にも名将の誉れが高いです。
彼は文才も有り「乱中日記」・時調などの優れた作品を残しており、特に陣中で詠ったシジョ詩調は憂国忠情が籠った傑作と称えられて居ます。
墓は忠清南道牙山市ウムボン面於羅山にあり、王が自ら建てた碑文と忠臣門が建立されました。
忠武の忠烈祠、麗水の忠愍祠、牙山の顯忠祠などが有り、この中で顕忠祠の規模が最も大きいです。
彼の諡号は忠武で著書として「李忠武公全書」が伝わります。
忠武公の諡(おくりな)は多かれど、普通「忠武公」と言うと彼、李舜臣を指します。
これからも我が国イチの英雄として南北朝鮮全民族及び全世界の人々に愛され輝き続ける事でしょう。
余談ですが2023年年末〜2024年に掛けて李舜臣リスンシンプロジェクト第三弾にして完結編映画『露梁ロリャン-死の海』の公開が控えて居ます。
コチラも楽しみです。
PS:レビュー記事を書きました。↓
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
나무위키
네이버블로그
乱中日記
朝鮮王朝実録