<不滅のイスンシンより>
 
6章 朝鮮の人物–30 近世14
リスンシン李舜臣❶
 
 
 
今回と次回は満を持(じ)してリスンシン李舜臣を語ります。
朝鮮を代表する愛国名将で、2言は要らない大英雄。
人気投票でも常に世宗と1位を争う大人物です。
以前述べたコラム『歴史の先覚者たち』でも2回に分けて書きました。
書く為に彼の人生を辿り、知れば知るほど感動した事を覚えて居ます。
 
<新作映画 ハンサン閑山 ポスター>
 
いっそ「ウィファド威化島回軍」ならず「ハンサンド閑山島回軍」(上手い?:笑)でもして政権を転覆、新王朝を建国してくれて居たら我が国もその後植民地になる屈辱は無かったかも?と言う想いは有ります。
 
実際、朝・中・日でイムジン壬辰ウェラン倭乱をキッカケに政権交替が起こらなかったのは我が国朝鮮王朝だけです。
それ程中央集権制が上手だったとも、国を新しく建て直す程のエネルギーすら無い程被害が甚大だったとも言えます。
 
彼が生きて変革してくれて居たら…とも思いますが、封建忠君思想にドップリ浸かって居た彼の事ですからそれは有り得ない事だったでしょう。
それが彼の良さで有り、限界でも有り人々に愛される理由(わけ)でも有ります。
 
 
簡単に彼の人生を辿ります。
いつも長い文章ですが今回・次回は余計長い事をご了承下さい。
お付き合い頂ける方のみご笑覧下さい。
 
李舜臣の本貫は徳水、字はヨヘ汝諧で高麗期にチュンランジャン中郎将を務めたリドンス李敦守から来歴の有る文臣の家柄で、父はリジョン李貞、母は草溪ピョン卞氏漢城コンチョンドン乾川洞で1545年に生まれました。
実家は忠清南道牙山市仮定面ベクアムリ白岩里ですが、子供の頃の殆どを生家であるソウルのコチョンドンで過ごして居ます。
 
彼を描いた大河ドラマ「不滅のリスンシン」で逆賊の汚名を受けた様に描かれましたが史実では有りません。
 
祖父リベクロク李百祿チョグァンジョ趙光祖の至治主義を主張していた若手士林と志を同じくして居る途中、キミョ己卯サファ士禍の影響を受けた事は確かですが、逆賊で有れば仕官出来る筈が有りません。
 
以前にも書いた様にこのドラマは彼をジックリ描いて居て私も好きですが、感動と驚嘆を誘おうとする余り、歪曲が酷く残念でなりません。
 
このドラマに限らず韓国史劇ドラマ全般がそうで有り、最近ではこのブログでも紹介した「チョソン朝鮮クマサ駆魔師」が歪曲の為批判を浴び、8割方撮影が終了して居るにも関わらず放送中止に追い込まれたとのニュースが有りました。
詳細が判ればまたそのニュースを取り上げたいと思います。
 
 
リスンシンの話しに戻りますが、
彼を妊娠して居る間、母親の夢に祖先が現れ「貴(とうと)い子が産まれるので舜臣と名付けるのが良い。」と告げ、そう名付けたと有ります。
朝鮮では仏教が否定された事も有って迷信などを重視する傾向が有り、特に夢占いを大事にすると以前も述べました。
 
その中でも胎夢を大事にします。
著名人には殆ど胎夢にまつわる逸話が残って居ます。
 
私も結婚する前に一度白い服を着た祖先が現れ子供の名前を啓示された事が有りますが、朝になると忘れてしまいました(笑)。
思うに色んな事を考えて居ると、1番良いと思う事を脳が整理してくれるのでしょうか?
どうであれ面白いです。
 
因みに彼の兄弟は長兄:李羲臣•次兄:李堯臣•弟:李禹臣の4人兄弟で、臣はハンリョル(トルリムチャ)です。
三皇五帝の伏羲氏·堯·舜·禹の王名を順に付けて居ますから、先の胎夢の話はただの伝説と思われます。
 
実際に父の代には家勢は傾いて居ました。
彼が文官を目指さず武官を目指したのも、出仕が遅かったのもその様な理由だったと思われます。
しかし、その中でも母ピョン卞氏は息子を深く愛しながらも家庭教育を厳しく接し、賢母の誉れが高いです。
 
彼は仁慈に富む性格で、幼い頃から人物が特出して居ました。
 
同じ村に住んでいたリュソンリョン柳成龍「チンビロク懲毖錄」で彼が子供の頃から大きな人物になる資質を備えていた事を次のように描写して居ます。
 
「李舜臣は子供の頃、顔カタチに優れ威厳が有り、他人の拘束を受けようとしなかった。
他の子供たちと集まって木を削って矢を作り戦争遊びをしたが、自分の意に合わない者あればその目を射ようとするし、大人も避けて、敢えて彼の門前を過ぎようとしなかった。
 
また、成長し弓を良く射、武科に合格して立身しようとした。
馬に乗じ弓を射る事を好み、ましてや書芸に秀でて居た。」
他の資料を総合すると要はワンパクガキ大将だった様です(笑)。
 
彼は28歳になった年初めて武人選抜試験の一種訓鍊院別科に受験しましたが、不運にも試験場で馬が倒れ、馬から落ちて左足を怪我して失格になりました。貧血だったと推測されて居ます。
 
その後も引き続き武芸を磨き、4年後の1576年(宣祖9)式年武科に兵科で及第し、權知訓鍊院奉事として初めて官職に就きました。
続いて咸鏡道の董仇非堡權管など歴任しました。
 
 
しかし、彼の進路は順調では有りませんでした。
造山堡萬戶兼鹿島屯田事宜となり、国防の強化の為に軍の増兵を中央に要請するも聞き入れてもらえぬ最中に女真族の侵入を受け、少ない軍勢では到底防ぐ事が出来ずやむを得ず退却しました。
朝廷ではそれをもっぱら彼の責任として問責しました。
しかし処刑される事を恐れず主將の判決に不服し、増兵を送らず罪を問うのは適切では無いと自己の正当性を主張しました。
 
この事実が朝廷に聞き入られ、重刑を免れはしたものの、初の白衣従軍(軍職を剥奪され一般兵として従軍)と言う悔しい罰を受ける事になります。
 
その後、全羅道観察使の李洸に抜擢され全羅道の助防將・宣伝官などに就き、かのリュソンリョン柳成龍に推奨されて高沙里僉使に昇進、47歳になった年に全羅左水営水軍節度使となりました。
 
倭国の侵略に備え左水營を根拠地にして戦船を製造して軍備を拡充するなど日本の侵略に対処し、ひいては兵糧の確保のため海島に屯田の造成を要請したりしました。
コブクソン亀甲船も彼により改良実用化が準備されて居ます。
 
 
翌年の1592年4月13日、日本の侵入により壬辰倭乱が勃発しましたが、日本の大軍が侵入して来た急報が彼に届いたのは二日後でした。
慶尚右水使だったウォンギュン元均から倭船350隻が釜山沖に停泊中という通知に続いて釜山東莱が陥落したと言う急報が入りました。
 
その時、釜山沖の防御を引き受けて居たパクホン朴泓 率いる慶尚左水営軍はプサン釜山が陥落した後になって兵を率いて釜山浦の前に着きましたが、トンレ東莱城が落城するのを見て倭の船団を攻撃する事もせず、引き返し陸地に逃げました。
 
また巨済島を根拠地にして居た慶尚右水使元均は釜山前の海に行く前に戦う勇気を失って戦闘を回避し、日本軍は朝鮮水軍と一度も戦わず制海権を掌握しました。
 
これらのニュースに接し彼はすぐに戦船を整備して臨戦態勢を整えました。
 
まず彼は戦況を綿密に分析、そして麾下戦艦を4月29日全羅左水営沖に集結させ作戦会議を開き完全な戦闘態勢に臨みました。
彼は総指揮官として5月2日旗艦に乗船して居ます。
 
4日未明出陣を命じましたが、この時の規模は大戦船24隻、小型艇15隻、漁船46隻、合わせて85隻の大船団でした。
 
2日後ハンサンド閑山島に至り慶尚右水使の元均の船団に出会って居ますが、その規模は戦船3隻、小型艇2隻に過ぎず彼と連合せずには戦えないレベルでした。
 
 
7日オクポ玉浦沖を過ぎた頃、斥候船から敵船の存在を知らせる連絡が来ました。
この時玉浦に停泊中の敵船は30隻。
倭軍は朝鮮水軍が海上から攻撃して来るとは思いもせず、陸に上がって火をつけ略奪を欲しいままにして居ました。
奴らは朝鮮水軍の攻撃のニュースを聞いて急いで船に乗って逃げようとしましたが、彼はその機会を与えませんでした。
 
瞬く間に倭船26隻が朝鮮水軍の砲火と火矢に当たり多くの倭兵が倒れました。
この戦い「オクポテーチョプ玉浦大捷」は李舜臣の最初の海戦として記録されて居ます。
 
玉浦海戦があった翌日にはチョクジンポ赤珍浦に停泊中の倭船13隻を打ち払いました。
 
第1次出動後の戦力を補強して戦船を整備した後、次の出動に備えて居た李舜臣は日本水軍の主力部隊が西に進んで居るという情報を入手すると、全羅右水使のリオクキ李億祺に合同で出動して倭船を撃退する提案をしました。
 
しかし、慶尚右水使元均から倭船10隻がサチョン泗川・コンヤン昆陽などに進出したと言う報告を受け急遽予定変更、敵に先制攻撃を加える事にしました。
 
5月29日亀甲船を前面に出して23隻の戦船でリョス麗水港を出航し、ロリャン露梁沖に至って戦船3隻を率いていた元均が李舜臣の戦艦に敵の状況を詳細に説明しました。
 
朝鮮水軍は間もなく日本水軍停泊中のサチョン泗川に着きましたが、倭軍はほとんど上陸しており倭船12隻が並んで停泊して居る状態でした。
 
 
李舜臣はそのままでは攻撃が容易で無かったのでそれらを海に誘引して殲滅する計画を立てましたが、その作戦は的中しました。
倭船12隻を全滅し、多くの倭軍を殲滅しました。
しかしこの戦いでラデヨン羅大用など多くの幹部が負傷し、李舜臣も敵の銃弾に当たり左肩を負傷して居ます。
 
この戦いでコブクソン亀甲船が初めて出動し、大きな威力を発揮しました。
初めて見る亀甲船に日本軍は慄(おのの)き、パニックになりました。
 
 
6月2日倭船がタンポ唐浦に停泊中と言う報告を受け我が軍が行くと、日本水軍亀井来島が率いる大・小船21隻が停泊し城の内外で放火と略奪を行って居ました。
 
奴らは朝鮮水軍を見て発砲しましたが、亀甲船を先頭に立てた彼と朝鮮水軍の激しい攻撃に大敗し敵将来島が戦死しました。
 
唐浦海戦の後、倭船が巨済島からタンハンポ唐項浦に向かったと言う情報を受け、全羅右水使李億祺の戦船25隻を合わせた戦船51隻、中小数十隻の連合艦隊は一斉に唐項浦に向かいました。
 
唐項浦内には日本軍の大船9隻、中船4隻、小船13隻が停泊中で、朝鮮水軍を発見した日本水軍が先に攻撃を加えて来たので、我が軍は敵船を包囲したのち亀甲船を突入させて猛攻撃を加え、日本軍を大破しました。
 
その後再び巨済・加徳に出没する日本水軍を撃滅する為、李億祺の軍と元均の7隻も加わり、いよいよ我が国最大の海戦の火蓋(ぶた)が切って落とされます。
すなわちハンサン閑山島海戦「ハンサンテーチョプ閑山大捷」の始まりです。
 
 
日本軍は幾多の海戦での敗北を取り返す為、兵力を増強してキョンネリャン見乃梁に敵将脇坂などが率いた大船36隻、中船24隻、小船13隻が停泊して居ました。
李舜臣見乃梁の地形が狭く活動に不便という判断の下、戦闘場所を閑山島に見定めました。
 
数隻の板屋船で日本水軍を攻撃しながら閑山島沖まで誘き出し、鶴翼の陣(ハギクチン鶴翼陣)を張り一斉に銃筒を発射し、激しい攻撃を加えました。
ここでも我が国の誇る亀甲船は先頭に立って大活躍。
煙幕で敵の行く手を遮り、大砲を撃ち縦横無尽の動きを見せ面目躍如でした。
 
ちなみに亀甲船が総勢何隻制作されたのかについては未だ定説が有りません。
あくまで突撃船で有る為、主船のパノクソン板屋船に比べその数は少なかったとされます。
しかし以前にも述べた様に亀甲船のインパクトは数以上に大きく、朝鮮水軍の顔としてその機能を十二分に果たしたと言えるでしょう。
 
 
敵の層閣船7隻、大船28隻、中船17隻、小船7隻を撃破し、この戦いで脇坂の家臣を始め名のある者たちが戦死しました。
李舜臣はこの閑山大捷の功で正憲大夫に昇格して居ます。
 
2022年李舜臣リスンシンプロジェクト第2弾として映画『ハンサン-龍の出現』が公開されコロナ禍の余波にも拘らず観客動員数700万人を越す大ヒットを収めました。
2023年には日本でも公開されて居ます。
後ほど紹介する弟1弾『ミョンリャン鳴梁(バトルオーシャン』と比べナショナリズム色(つまりは反日色)は控えめで、人類普遍の共通項「義と不義との闘い」色を全面に押し出す事でグローバル的な共感を得る事に成功しました。
敵国の日本でもアレルギー無く受け取れる内容です。
DVDもレンタル中なので機会があれば是非。
 
その後彼は再び前進してアンゴルポ安骨浦の敵船を攻撃しましたが、水深が浅いので敵船を誘き出して攻撃しようとするも敵船が恐れて出撃して来なかったので、将軍たちに命じ交互に一日中敵船を攻撃して、大船をほぼ焼滅しました。
 
第3次出動の結果カドク加徳島より西の制海権を完全に掌握し、李舜臣は余勢を買い日本軍の橋頭堡である釜山浦ヘの攻撃決断を下しました。
 
戦船74隻、小船92隻を率いる彼は攻撃前日、夜を明かし元均・李億祺と作戦会議を行い釜山浦攻撃作戦を練りました。
 
9月1日斥候船を釜山浦に送り探査した結果、倭船約500隻が海岸に並んで停泊しており、大船4隻が草梁に向かって居るとの報告が入りました。
 
釜山浦の敵軍の防御が強化された事を知った多くの将軍たちは深入りする事を躊躇しましたが、李舜臣はこれを頑なに拒絶して督戰旗(戦いの合図の旗)を高く掲げ進撃を促しました。
 
右部將チョンウン鄭運などが先頭に立って海に出て居る敵の大船4隻を攻撃すると他船も一緒に突進しました。
 
 
しかし、3陣に分かれ停泊中の日本水軍470隻は我が軍の威容に押されて中々出て来ようとせず、船から皆下船、山に上がって陸上から味方に砲撃を仕掛けて来ました。
 
李舜臣以下の我が軍はこれに対抗しさらに猛攻撃を加えながら一日中交戦して敵船100隻を撃破しました。
 
この戦いで敵の被害は大きかったものの味方の被害も30人と多く、将軍チョンウン正雲が犠牲になりました。
 
1593年に再び釜山と熊川の敵の水軍を壊滅、南海岸一帯の敵を完全に掃討したので閑山島に本営を移し、李舜臣は我が国初の三道水軍統制使に任官します。
 
翌年明水軍が来援するとチュクト竹島に陣を移し、続いてチャンムンポ長門浦で敵軍を撃破、我が軍の後方をかく乱して西海岸に進出しようとする日本軍の前進を防ぎ彼らの作戦を破綻に追い込みました。
 
その後、明と日本の間の講和会談が行われ戦争が小康状態に入ると彼は後日に備えて軍事訓練、軍備拡充、避難民の生業(なりわい)の保証、産業奨励などに全力を注ぎました。
この様な計らいは彼が将軍としてだけで無く、総合的なリーダーとして軍民に慕われる所以(ゆえん)でも有ります。
 
 
朝鮮を蚊帳の外に置いてスムーズに纏(まと)まるかと思われた明・日の講和は物の見事に決裂し、朝鮮水軍とリスンシン李舜臣の前には新たな敵が立ちはだかる羽目に陥りますが、それについては紙面を次回に移したいと思います。
波瀾万丈なリスンシン李舜臣、彼の孤独な闘いを最後までご覧下さい。
 
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<参考文献>
한국민족문화대백과사전
네이버블로그
나무위키 
懲毖錄
 

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