<ドラマ サイムダン師任堂色の日記より>
 
6章 朝鮮の人物-28 近世12
リファン李滉とリイ李珥
 
 
 
 
さて現在、近世の人物を綴って居ますが、狙って居るのは人物を通した通史です。
そう、続けて読めば朝鮮王朝全史になる様に書こうと思い付いたのです。
 
そうすれば読む人もプツンプツンと切れず分かり易いのでは?と思ったりして(笑)。
 
現在「壬辰倭乱」前夜まで来ました。
しかしこの場合、ややもすると王の人物紹介の物語で終わってしまう恐れが有り要注意です。
李施愛や趙光祖など、歴史的に重大な周辺人物も忘れずに書きたいです。
と来ると、この時期で欠かせ無いのが我が国儒学の2大学者、
テーゲ退渓リファン李滉リュルゴク栗谷リイ李珥です。
韓国の紙幣にもなって居る偉大な人物2人、韓国では絶大な人気です。
 
<リファン>
 
日本ではさほど有名で無いので地味(と言う事はアクセスも期待出来ませんね:笑)ですが宣祖の時代に行く前に寄りたいと思います。
哲学の話なので面白みが無く分かり難いとは思いますが、懲りずにご覧下さい(笑)。
 
あまつさえ儒教の世界は難しく、筆者も勉強不足な為、実際の所詳しい事までは分かりません。
分からない人間が書いて読む人が分かる訳有りませんよね(笑)。
何と無責任な話でしょう?
 
 
韓国の成均館大学にでも留学して習えば理解出来るでしょうか?
どなたか哲学専攻の方、ご教示下さい(笑)。
 
それでも出来る限り理解出来た部分を一生懸命述べたいと思いますので努力を買って下さいます様お願い申し上げます(笑)。
 
まずはテーゲ退渓リファン李滉(1501年:燕山7〜1570年:宣祖3)を。
 
テーゲ退渓は彼の号で、リテゲ李退渓と呼ばれる程、数ある号の中で1番有名な号です。
字はキョンホ景浩, 号は他にもテド退陶·トス陶叟など有ります。
「東方の小朱子」と呼ばれ、同時代のリイ李珥と共に朝鮮儒学の代表者とされて居ます。
 
彼は慶尚道の禮安縣の溫溪里で李埴の7男1女の末っ子として生まれました。
生後7ヶ月で父を亡くし、生母パク朴氏の薫育の下、資質を育てて行きました。
 
12歳の頃叔父のリウ李堣から論語を学び、14歳頃には1人での読書を好む様になりました。
 
<ドラマで>
 
1537年母の葬儀で3年間喪に服し1539年弘文館修撰になりましたが、すぐに中宗王から사가독서賜暇讀書(学問の為の休暇)の恩恵を受けて居ます。
 
中宗期の晩年に朝廷が雑然とすると都を離れて山奥に隠居する決意を固め、1543年10月墓参りを口実に故郷に戻りました。
乙巳士禍後全ての官職を辞退し、1546年(明宗1)故郷の洛東江上流のトゲ兎溪で学問に専念する生活に入りました。
この時にトゲをテゲ退渓と改称して自分の号として居ます。
 
その後、国の状況が隠居して居る場合で無い事を知り、腐敗を避け地方職を希望して忠清丹陽郡の郡守などを歴任。
 
 
朱子の例に習い、中央政府から高麗末期の朱子学の先駆者アンヒャン安珦を祀った白雲洞書院に、扁額・書籍・学田を授けてくれる様に請願して実現させました。
 
これが朝鮮王朝の賜額書院の始まりのソス紹修書院です。
 
↓↓書院についてはコチラ↓↓↓

 

その後も乱れた政界を嫌い、任官・退官を繰り返して居ます。
 
1560年トサン陶山書院を作って号をトオン陶翁とし、7年間書院に起居しながら読書・修養・著述に専念、多くの弟子たちを薫陶しました。
 
明宗は礼を尽くし彼に頻繁に出仕を勧めましたが聞かず、明の使節が来た時だけ仕方なく漢陽に行き手伝いました。
 
明宗が突然亡くなり宣祖が即位して彼を幾度も招聘、最終的に68歳の老齢で大提学・知經筵を担当し国王に訓戒の言葉を捧げて居ます。
 
1569年(宣祖2)吏曹判書に任命されるも辞退し故鄕ヘ帰郷、学問に打ち込み、翌年11月逝去しました。
 
<トサン書院>
 
彼の理論は一言で「理気二元論」と言えます。
 
李滉は明で盛んになった陽明学を退け、あくまで朱子学を尊重し、朱子学の本幹で有る「格物致知」の概念や「理気二元論」に基づいて精緻で稠密な議論を展開する主理説を解きました。
 
彼の学問は徹底した内省を出発点としており、「四端七情」「理気」を巡る若い学者キデスン奇大升との17年にも渡る儒学論争が有名です。
 
論理的整合性を重視する奇大升に対し人間のあるべき道徳的な姿を求めて、理気の互発説(四端は理の発、七情は気の発)を主張しました。
 
詳しくは李珥との対比で説明しましょう。
彼の後継者たちは「嶺南学派」と呼ばれ、李珥の系統の「畿湖学派」と鋭く対立、互いに切磋琢磨しながら理論を発展させます。
 
次にリュルゴク栗谷リイ李珥(1536年:中宗31〜1584年:宣祖17)を見ましょう。
 
彼は江原道江陵生まれ、字はスクホン叔獻、号は栗谷・石潭・愚齋
父は贈左賛成リウォンス李元秀、母は詩人・書芸家・画家・賢母の師表として崇められて居る、かの有名な師任堂申氏、俗名シンサイムダン申師任堂です。
 
<リイ李珥>
 
彼女シンサイムダン申師任堂について地理、江原道にて軽く取り上げました。
 
↓↓記事はコチラ↓↓↓
 
人物紹介で深く書こうと思いましたが、今の流れだと出来ません(涙)。
 
ドラマ「師任堂 色の日記」の様に過去と現代を行き来する難解な設定で無く、本格的な史劇を観たいですが、美女とイケメンのラブストーリーにシフトして居る現在の韓国ドラマの流れではシリアスな史劇は実現しそうに有りません。
 
それでもイヨンエのイメージは彼女とピッタリ合ってました。
もう1度彼女主演の申師任堂が観たいです。
 
 
李珥に戻りますが、彼は幼名をヒョンリョン見龍と言い、母サイムダンが彼を産んだ日、黒龍が海から家に飛んで入る夢を見て付けた名前です。
彼を産んだ産室はモンリョン夢龍室として、今も保存されて居ます。
 
8歳の時坡州リュルゴク栗谷里の花石亭に上がって詩を詠む程文学的才能が優れて居ました。
1548年(明宗3)13歳で進士試に合格、16歳で母申師任堂が亡くなり3年間墓守りしました。
 
その後金剛山に入り、仏教を勉強して下山、再び儒学を修学。
1558年の春陶山リファン李滉を訪問し、その年の冬文科初試で「天道策」を述べ壮元(首席)で合格。
前後9回の科挙全て壮元及第して「九度壯元公」と呼ばれました。
 
1561年父が亡くなり、1564年戸曹佐郎を始め礼曹佐郎・吏曹佐郎などを歴任し、1568年(宣祖1)チョンチュサ千秋使のソジャングァン書狀官として明に行って来ました。
 
親睦を結んだ著名な文臣ソンホン成渾と朱子学の根本的な問題を論じ、1569年王に「東湖問答」を献上、1572年にも成渾と理気・四端七情・人心道心などを論じました。
 
 
道学に関連する問答書簡を交換しましたが、
李珥37歳の1572年に性理学の本格的な議論を行って居て、李滉と奇大升の様に長い年月続けたのでは無く、たった1年の間に9回に渡って朱子学の重要な論議を集中的に交わしました。
 
1574年右副承旨に任命され、1575年朱子学の中核を簡潔に述べた「占聖学輯要」を編纂しました。
 
1582年吏曹判書に任命され、「金時習伝」「学校模範」などを著述し、1584年漢城(ソウル)テサドン大寺洞にて49歳で永眠しました。
 
朱子学者として李滉と並び称される彼は儒学のみならず多種多様の学問を積み、従来の朱子学を更に発展させた中興の祖と言えます。
 
リファン李滉と比べてさほど波瀾万丈な人生では有りませんでしたが、李珥が活動した時期は前回述べた通り激動の時代でした。
 
1545年乙巳士禍が発生、多くの士林が死・流刑され士林は出仕を放棄し自己修練の道を選びましたが、1565年(明宗20)ムンジョン文定大妃の死と20年間の政治を専横した権臣ソユン小尹こと尹元衡の失脚で国の情勢が変化。
罪を負った人々が解放されて士林は再び政界に復帰し始め士林の活動が活発になって来ました。
 
この様な状況下から彼は現実に即した理論を提示しました。
儒学者ですが、その学問を実際の社会である政治・経済・教育・国防などに対しても適用させ、様々な施策を提言して居ます。
中でも1583に宣祖に説いた「十万養兵」策が有名です。
 
<ドラマ 告白より>
 
理気論でも、必ずしも朱熹の説に依拠せず、理通気局説を唱えて合理的な解釈を行いました。
彼は理の気に対する優位は認めるものの、理を完全な別個の存在と見る考え方は否定します。
 
李滉理気二元論において、理と気は互いに独立して対立しており、どちらか片方が欠けると宇宙を構成できないとしましたが、
李珥理は無形無為の存在であり気は有形有為の存在として、理は気の主宰者ではあるが気は理が乗るだけであり、一元論でも二元論でもなく宇宙の構成は理と気がそれぞれ互いを包括しているとして、気を念頭に置いた主張を行って居ます。
 
「四端七情」に於いても、李滉が四端は理が発し気がそれに従い、七情は気が発し理がそれに乗ると言う、理と気の相互の能動性を説いたのに対して、李珥は四端や七情がいずれも気が発して理がそれに乗ると言う包括関係を説きました。
 
李珥は時の変化に伴う法の改正は当然の事だと見ました。
性理学は単純な観想哲學では無く、時勢を知り正しく処理しなければならないという「実功」と「実効」を常に強調しました。
 
 
この様に彼は真理と現実の問題は直結しており、離れて個別に求める物では無いとしました。
ここで理と気を不離の関係で把握する理気一元説の特徴を見る事が出来ます。
 
先程述べた様に、李滉二元的理気論で理と気を分裂的対立として理解しました。
しかし、李珥は先輩の李滉の二元的理気論に同意しませんでした。
 
李滉が上記の様に二元的理気論を主張する様になったのは、自分が相次ぐ禍いを経験し、当時の社会的政治的混乱と不条理を痛切に感じた為にそうなったのだと思われます。
 
<パジュ坡州チャウン書院>
 
彼は個人や集団で起こる全ての問題が公義と私利の分別が明確になって居ない事で起こると考えました。
李滉が天理と人欲、道心(儒教精神)と人心、四端と七情、本来の知性と気質の知性を対立的に強調するのは正にこの様な自覚の反射です。
 
彼は理発と気発、四端と七情、道心と人心はそれぞれ純粋な精神的価値と身体・物質的欲求の二つの方向を意味して居ると考えました。
 
彼は理・気が王と臣下の関係に有り、人心は常に道心(儒教精神)の命令に従うべきだと述べました。
これらの関係が逆転すると個人的には道徳の放棄をし、社会的には倫理の破滅と政治の堕落をもたらす事になると考えました。
 
李滉混濁した政治の現実を離れて学問を修道する事、すなわち道を伝える事が自分の使命と考えたのです。
 
それに比べて李珥の場合は状況が違いました。
先程も述べた様に1565年以来士林が復帰する様になり、社会的状況を改善し民生の問題を解決し、国の命脈を正す事が出来ると言う希望を持てる様になりました。
従って現実の改善そのものに真実を探し、理と気の双方が対立する物で無く一体で有ると把握出来る楽観性が見えて来たのです。
 
この様な背景をパターンに李珥の哲学的見解が形成されたと言えるでしょう。
 
 
彼ら2人とも気より理が優先する観念論で有り、唯物論では有りません。
しかし、最初から理と気が2つであることを二元的に把握する李滉物質でも精神でもあれ現象そのものの理由として、これらが別個に存在し得ず一緒に存在すると言う一元的に把握する李珥の見解とに分かれると言えます。
 
この様に李滉「理は万有を可能にする超越的存在であり、これを強調」したのに対し、李珥はほぼ同時代の人物でありながら「理の世界と気の領域を完全に肯定して包括しつつ、同時に両面が併さり止揚される」とし非常に対照的な見解を堅持したのです。
 
 
どちらが秀でて居ると言う問題では有りませんが、李珥の哲学は後日儒学の範囲内で社会的改革を実現しようと言う「実学」の発生に強い影響を与えたと言えます。
 
先にも述べた通り、リファン李滉の子弟たちはその後嶺南学派を形成し、リイ李珥の子弟たちは畿湖学派を形成し我が国儒学の2大学派として君臨、我が国の儒教思想の2大潮流として根を張って行く事になりました。
 
難解な彼らの理論のほんの一端だけ紹介説明しましたがご理解頂けたでしょうか?
舌っ足らずですが、以上にておしまいとさせて頂きます。
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
나무위키 
Wikipedia
 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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