<李施愛リシエ>
 
6章 朝鮮の人物ー23 近世7
リシエ李施愛と咸鏡道農民戦争
 
 
 
 
前回世祖と彼の王位簒奪を輔弼(ほひつ)したハンミョンフェについて見ましたが、今回はそれに反対した勢力について見たいと思います。
 
まず良く聞かれるのは生六臣 死六臣で、前々回紹介した世宗の取り巻きと言える集賢殿の学者たちを中心に世祖のクーデターに断固として反対した事はご存知の事と思います。
 
<クモシヌァ金鰲新話のミュージカル>
 
また以前紹介した生六臣の1人キムシスプ金時習が世祖の王位簒奪を良しとせずクムオサン金鰲山で隠遁生活を送り、朝鮮初の小説「金鰲新話クムオシンファ(クモシヌァ)」を執筆した事も述べました。
 
この伝奇小説を3回に渡りワンポイントコラムで紹介して居ますので、未見の方は是非。
 
↓↓↓記事はコチラ↓↓
 
今回はもう1つの戦い、リシエ李施愛の指導下で咸鏡道の人々が戦った「咸鏡道農民戦争(李施愛の乱)」について見たいと思います。
 
この戦いは正(まさ)しく中央政府と咸鏡道地方との戦争と言え、 天下を揺るがす戦いとなりました。
 
李施愛(?〜1467)の本貫は吉州​、父は咸吉道僉節制使リインファ李仁和です。
彼は祖父が1370年(恭愍王19)李成桂の東寧府征伐時に投託し、朝鮮建国以来咸吉道に基盤を築いた名門豪族です。
 
<咸鏡道農民戦争 絵巻屏風>
 
代々吉州で生きて来た地方豪族出身で、一族は咸吉道内の複数の邑に住んで居ました。
朝鮮初期の北方民懐柔政策によって重用され1451年(文宗1)護軍となり、1458年(世祖4)慶興鎮兵馬節制使を経て、行知中枢府使・判会寧副使を務めました。
 
この当時世祖は即位後、強力な王権の下で中央集権化施策を伸ばして居ました。
 
元々咸吉道(咸鏡道の当時の道名)太祖・李成桂の故郷で、朝鮮王室の発祥の地でした。
太祖はこの地域に基づいて勢力を伸ばしており、女真族を服属させ力を育てました。
 
<ドラマ王女の男の一場面>
 
世宗は4郡6鎮の開拓を通じて豆満江まで領域を拡大し、三南地方の民衆を移住させて咸吉道を領土に確定させました。
しかし、常に北方の女真族と対峙しなければならない状況で咸吉道を守るには、莫大な人的、物的犠牲を払う必要があり、これが咸吉道民に大きな負担となって居ました。
特に咸吉道民だけに負わせた神税布と言う税が大きな負担でした。
 
<映画 観相士より世祖>
 
朝鮮王朝は建国後咸吉道を効率的に統治、防御する目的で、先にも述べた様に出身豪族を地方官に任命し治めました。
 
しかし世祖中央集権政策を強化して中央からの守令を派遣すると、咸吉道の豪族たちはこれに大きな不満を抱くようになりました。
 
更に、中央から派遣された官吏は築城などの事業で民衆を疲弊させ、横暴の限りを尽くしたので民心は大きく反発しました。
 
<農民戦争の図>
実際この戦い当時、討伐軍に参加したリュジャグァン柳子光は反乱が大きく広がった理由を、咸吉道に派遣された守令が皆武臣出身で、民衆を酷使させた為と捉えて居ます。
 
世祖は全国的に中央の統制力を強化しようとして「ホペポプ:戸牌法」を実施して住民の移動を取り締まって人口を徹底的に把握し、「ポポプ:保法」によって多くの人が軍役を担う様にしました。
 
↓↓↓ホペ号牌法についてコチラも参照↓↓
 
それまで咸吉道地域は地方土豪勢力が自分の支配民をすべて自分の戸に編入して居ました。
 
このような状況で戸を基準に税金と軍役を負う場合、多くの人々が1戸の税金と軍役だけ負担すれば十分ですが、戸内人丁の数をすべて把握して軍に徴発する「保法」が施行されると従来の戸を維持する事が困難になり、課税と軍役の負担が非常に増える事になります。
 
<ホペ号牌>
 
この事は咸吉道の豪族だけで無く一般民にも相当な負担の増加を意味しました。
 
李施愛は農民に過重な負担を与え生産の減退と農民の流亡を促進、地方勢力を弱体化させる世祖の政策に真っ向から反旗を翻しました。
そして地方自治機関の性格を持つ「リュヒャンソ留鄕所」を中心に反政府活動を展開しました。
 
1467年母の喪に服す為の蟄居中に兄弟のリシアプ李施合と妹の夫リミョンヒョ李明孝と謀議して5月10日反乱を起こしました。
 
彼らは南の軍事が陸路・海路両方より攻め込み地元民を殺そうとすると言う噂を流し民衆を扇動して、憎しみを買って居た咸吉道節度使カンヒョムン康孝文と指揮下官を殺害し、各地方の守令を処断しました。
 
 
乱が起きると道内各地のリュヒャンソ留鄕所の豪族と農民が呼応して巨大な反乱勢力を形成しました。
ここにリシエ李施愛は節度使を自称し端川・洪原・北青・咸興など咸興以北の多くの地域を占拠しました。
 
反乱の報告に接し朝廷ではリジュン李浚を四道兵馬都通に任命し、ナムイ(ナミ)南怡などを大将に3万もの官軍を動員させて反乱軍の鎮圧に向かいました。
 
<ナムイ(ナミ)将軍>
 
しかし反乱軍の勢いが非常に強かったので討伐軍は進撃出来ず、江原道に留まったままでした。
増員を受けやっとの事で準備を完了し、6月10日に咸興に進出しました。
 
以後官軍は吉州に向かって北上して北青に駐留しました。
一方李施愛は官軍が北上すると一度後退して兵力を集め軍勢を再整備し、1万6千の軍隊を率いて6月24日の夜に北青の討伐軍の先鋒隊を奇襲しました。
戦いは熾烈でしたが、反乱軍は官軍の守備を突く事が出来ず再び北に後退し、急襲を受けた官軍も再び洪原、咸興に退きました。
 
官軍が退いた後反乱軍は再び北青を占拠しました。
討伐軍が後退したというニュースが入ってくると世祖は援軍と軍需品を送って討伐軍を5万に増強しました。
 
<処断されたシンスクチュの息子>
 
洪原、咸興まで退いた官軍は戦列を再整備して補給を受けた後、3つの陣に分かれて北青に向かって北進しました。
 
これに対抗するリシエ李施愛も軍勢を補強して3方面軍に分け官軍を包囲しようとしました。
 
7月25日討伐軍の第1陣と第2陣は、それぞれ反乱軍を撃破し北青を占領しました。
すると李施愛は5千人を率いて北青から利城に通じる険しいマンリョン蔓嶺に陣を張って官軍を待ち構えました。
 
8月4日官軍は総攻撃を開始して反乱軍を囲み、
李施愛が居る蔓嶺の陣に迫りました。
彼は2千人の兵で命掛けで持ちこたえましたが、一部の討伐軍がこっそり反乱軍の後ろに回り彼の軍隊を前後から挟み打ちする事により、反乱軍の防御を崩しました。
結局彼は夜に乗じて逃走します。
 
 
この蔓嶺での敗北で李施愛の反乱軍の勢いは大きく打ち砕かれました。
勝利した官軍は勢いで利城を占領し、マウンリョン摩雲嶺を抵抗なしに超え北に進撃しました。
 
李施愛端川で官軍を防ごうとしましたが、部下の士気が落ちた上に兵力が大幅に減少し、再び端川を捨て吉州に脱出します。
彼は再起を狙って6鎮の兵士と女真人を結集する為鏡城に行く途中、8月12日に咸鏡道節制使ホジョンの部下に捕縛されて弟と一緒に官軍に送還されました。
 
李浚はこれらを取り調べた後、首をはねて朝廷に送り、8月18日漢陽に李施愛兄弟の首が到着することで、反乱は終結しました。
 
数年間軍を鍛えて首都漢陽まで進撃しようとした彼、李施愛の野望は潰(つい)えましたが、咸吉道への差別を緩和するしか無く、神税布は廃止されました。
 
<リシエを描いたドラマ>
 
その他の雑多な負担を減らす措置は取られましたが、吉州は吉城県に降等、咸吉道永安道、咸鏡道に代わるキッカケになりました。
そして、リュヒャンソ留鄕所は廃止、その後咸鏡道地方は李成桂の出身地にも関わらず反乱の地として、長きに渡り言われなき差別を受ける事となります。
 
また皮肉な事に、この反乱を鎮圧する事で世祖の中央集権化は急速に進む結果となりました。
 
最後に、朝鮮歴史上の大事件であるこの戦いを詳細に描けて幸いでした。
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
우리 역사넷  국사편찬위원회 
나무위키 
조선전사
<王女の男>