<ドラマ ハンミョンフェより>
     
第6章 朝鮮の人物ー22 近世6
世祖と韓明澮ハンミョンフェ
 
 
 
 
近世の人物紹介を始める際に、どう言った人物を取り上げるか迷い、Facebookのグループ「韓国朝鮮の社会と歴史を知る会」などで取り上げて欲しい人物を募りましたが、コメント頂いた中にハンミョンフェ韓明澮が有りました。
世祖の王位簒奪「ケユチョンナン癸酉靖難」中心人物です。
 
<ドラマ ハンミョンフェより世祖>
 
どちらかと言えば悪者ですが、名前を冠したドラマも作られ、映画のキーパーソンにもなった人物です。
面白そうなので取り上げる事にしましたが、それだけではつまりません。
反対派として「生六臣死六臣」が有名ですが、もう1人朝鮮八道を揺るがした 「咸鏡道農民戦争(=李施愛の乱)」リシエ李施愛も扱う事にしました。
 
2回に分けますのでどうぞご覧下さい。
 
↓↓生六臣 死六臣のお話はコチラを↓↓↓
 
まずは端宗世祖の事を簡単に。
 
端宗(1441~1452)世宗の孫です。
世宗の長男で5代王の文宗(1414~1450)の長子として生まれました。
父王文宗は聡明で、虚弱だった世宗に代わり1442年より8年間代理として摂政を行いました。
世宗の晩年の殆どの業績は彼に依る物と言っても過言では無い働きをしたと言えるでしょう。
 
しかしそのせいで長らく無理をし、ましてや父王の逝去に伴う心労で即位後2年2か月の39歳の若さで逝去しました。
 
端宗は頼る身寄りもないまま11歳の若さで即位します。
本来なら祖母や母親が代理聴政を行う筈ですが、皆早く逝去してしまった為、後ろ盾になってくれる人物も居ないまま親政を行わなければなりませんでした。
 
その中で幼き王端宗の王座を叔父であるスヤンテグン首陽大君(世祖)が虎視眈々と狙う事となるのです。
 
1417年生まれの彼世祖は、生来資質が英明で明敏、学問も良くし、武芸も他人より優れていたと言います。
当初晉平大君で、1445年(世宗27)にスヤンテグン首陽大君に改めました。
 
大君の頃、世宗の命で宮廷中に仏堂を設置する事に尽力しました。
仏書の翻訳や郷楽の楽譜を監修、整理しました。
 
<世祖の肖像画>
 
1452年(文宗2)には慣習都監都提調に任命され、国家の実務を担いました。
1452年5月に兄の文宗が逝去し、端宗が即位します。
すると腹心のクォンラン権擥ハンミョンフェ韓明澮などと一緒に政局転覆の陰謀を進めて翌年1453年10月にいわゆる癸酉靖難ケユチョンナンを断行しました。
 
<端宗の肖像画>
 
癸酉靖難ケユチョンナンとは一言で世祖が起こしたクーデターです。
彼は甥っ子で有る国王端宗の即位1年後の1453年10月に、ファンボイン皇甫仁、キムジョンソ金宗瑞ら祖父の世宗が後見人として頼んだ顧命大臣を突如襲い殺害して政権を奪取しました。
 
一晩で暴力的に政局を転覆させ、軍の大権を片手に握った世祖は、自己腹心を要職に配置、国政を勝手に処理しました。
朝廷の反対勢力、咸吉道都節制使だったイジンオク李澄玉も誅殺、内外の反対勢力をすべて除去しました。
 
1455年6月に端宗に王位の禅譲を強要し王位簒奪します。
 
<映画 観相士より>
 
1456年(世祖2)6月に成三問など、いわゆる死六臣が主導となって端宗復位を計画しますが発覚、この事件に関連した複数の臣下をすべて死刑に処しました。
また前回紹介した集賢殿を廃止して居ます。
 
1456年の6月に死六臣の謀復事件に連累したとして端宗ロサングン魯山君に降格、江原道寧越に流刑し部下に命じて殺して居ます。
 
<端宗役のチョンテウ>
 
世祖は政情が安定するに従って王朝政治の基準となる法典の編纂に着手し、「經濟六典」を整備、「経国大典」の撰述を開始しました。
また軍制改革など様々な改革に着手し、自己の権力安定を図りました。
 
都兵馬師としてその地方出身者の登用を抑制し、中央の文臣でこれを代替させました。
これに反感を抱いた咸吉道会寧出身リシエ李施愛が1467年に地方民を扇動、吉州で反乱を起こしました。
世祖はこの反乱を無難に平定し、中央集権体制をさらに強固に確立しました。
 
この様に順風満帆な治世でしたが、歴史篇でも述べた様に彼の子供睿宗、孫の成宗は早逝して居ます。
 
人々は端宗の呪いと噂しました。
 
世祖の腹心となり、彼の陰謀を陰で支えた人物が上記のハンミョンフェです。
 
 
彼は生年1415年〜1487年、右議政、左議政、領議政などを歴任した文臣で本貫は清州、字はチャジュン子濬、号はアプクジョン狎鴎亭・サウダン四友堂です。
二人の娘は、ジャンスン章順王后コンヘ恭惠王后です。
 
両親を幼くして亡くし、不遇の少年時代を過ごしました。
文に秀でて居たものの科挙ではいつも失敗しました。
1452年(文宗2)に蔭敍(음서ウムソ:両班の子弟を科挙に依らず採用する制度)により景徳宮直となりました。
 
<映画 観相士のキムジョンソ>
 
すぐに端宗が即位してキムジョンソ金宗瑞などが大臣として執権すると、友人の校理クォンラム権擥の斡旋で端宗の叔父で有るスヤンテグン首陽大君(後の世祖)に接近します。
そして彼にホンダルソン洪達孫など30人余りの武士を腹心として推薦しました。
 
1453年(端宗1)癸酉靖難ケユチョンナン계유정난に首陽大君の腹心参謀として功を立て靖難功臣1等に冊封された後、サボクシソユン司僕寺少尹に上がりました。
 
1455年世祖が即位すると佐翼功臣1等に上がります。
1456年(世祖2)成三問など死六臣の端宗復位運動を挫折させ、彼らの誅殺に積極的に協力する事により、承政院の都承旨に昇進しました。
1457年吏曹判書に上がって上党君に封じられ、次いてで兵曹判書になりました。
 
<ドラマ王女の男より 世祖役キムヨンチョル>
 
一晩で暴力的に政局を転覆させ、軍の大権を片手に握った世祖は、自己腹心を要職に配置、国政を勝手に処理します。 
1459年黄海・平安・咸吉・江原など4度の体察使を過ごし、1462年に右議政、1463年左議政を経て、1466年最高地位の領議政に上がりました。
 
クォンラム権擥・シンスクチュ申叔舟などと姻戚関係を結んで世祖の治世に大きく寄与しました。
 
1466年に、次回述べるリシエ李施愛が咸鏡道で反乱(咸鏡道農民戦争)を起こすと申叔舟と反逆を図った疑いで逮捕され審問されますが、疑いが晴れすぐに釈放されました。
 
1468年世祖が死ぬと遺訓に基づいて院相として庶政を決済します。
 
<ハンミョンフェの肖像画>
 
同年ナムイ南怡の獄事を治め翊戴功臣1等に封じられ、 1469年(睿宗1)再び領議政に復帰しました。
 
イェジョン睿宗が逝去し成宗が即位すると兵曹判書を兼任します。
1471年(成宗2)佐理功臣1等に冊封され、迎春秋館司としてチェハン崔恒・申叔舟などと一緒に「世祖実録」を完成させました。
 
また、成宗に学問を振興させる案を提示し、書籍が不足している成均館の蔵書の拡充のために經史関係の書籍を沢山印刷して備置・閲覧出来る様にしました。
 
<ドラマ 王と私の成宗>
 
世祖即位以来、成宗代まで高官要職をあまねく歴任、政治に参与します。
特に世祖は彼を寵愛して「私の張良(:漢の劉邦の軍師)」とまで呼びました。
4回にわたって1等功臣を冊封され、多くの土地と奴婢を受け権威と賞を享受しました。
 
漢江の南側に東屋(あずまや:亭)を作ってその名前を「アプグ狎鷗」としました。
今韓国で流行りのソウル アプクチョンドン狎鷗亭洞はここから来て居ます。
 
<人気のアックチョンドン>
 
順風万端な生を送り亡くなりましたが、1504年(燕山君10)の甲子士禍の際、燕山君の実母ユンビ尹妃廃死事件に関連したとして부관참시剖棺斬屍(墓を暴き八つ裂きにする刑)される屈辱を味わいます。
 
恥辱の死亡でも人々に慕われる人生と、生存時に冨貴栄華を誇っても死亡後に恥辱を受ける人生、どちらが幸せでしょう?
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
 

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<ドラマインステービ大妃>