<ドラマ 大王の夢>

 
第6章 朝鮮の人物ー8 古代中世-8
金春秋キムチュンチュと金庾信キムユシン
 
 
 
 
今回取り上げる人物達はとても評価が微妙な人たちです。
何故なら南北で評価が正反対だからです。
以前、1950年代迄は共和国でも新羅の戦争を三国統一と評価し、金春秋(生年602〜661)と金庾信(生年595〜673)を英雄と称しました。
 
しかし、その後のチュチェ主体史観によって見方が変わり、今では唐と言う外勢を頼りに自民族を背信して高句麗の領土を売り払い、ましてや7年にも亘る対唐戦争により国民・国土を疲弊させ、最後まで侵略者を追い払わず、その後我が国の北方領土を永遠に明け渡す羽目に陥らせた張本人、売国奴と見做して居ます。
 
現在では統一新羅と呼ばず後期新羅と呼ぶ事も以前歴史篇で述べました。
 
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1980年代以降、韓国でも渤海の存在に注目してこの時代を南北国時代と呼んで居ますが、
新羅を統一新羅と呼び新羅が三国を統一したと表現し、自己矛盾を起こして居ます。
南北国分立と統一と言う言葉は相容れない表現なので、見直す必要が有ります。
 
<キムチュンチュ金春秋>
 
同様に金春秋と金庾信についても肯定的に評価して居るので、矛盾が解決出来ずに居ると言えるでしょう。
 
私も北の教育を受けて来たので、彼らの記事を書く事には抵抗が有ります。
とは言え一方で評価して居る人物を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かず今回初めてと言って良い程、扱わせて頂きます(笑)。
 
金春秋は三国時代新羅の第29代(在位654〜661)の王です。
金春秋は英明で、幼い頃から世を治める志を持って居たと言います。
真徳女王に仕え官位がイチャン伊湌に至りました。
 
 
金春秋は647年に起きた旧貴族勢力の反乱を鎮圧してそれらを粛清し、善徳女王が死ぬと旧貴族と一時的に連携して真徳女王を即位させ、政治的実権を完全に掌握しました。
 
真徳女王の逝去時、複数の臣下たちが王位継承者としてアルチョン閼川を推薦しましたが、アルチョンが自分の老いと徳の不足を理由に辞退し、その代わりに金春秋を推挙しました。
金春秋が推戴を受け即位したのが52歳の時でした。
 
一方の金庾信ですが、曽祖父は532年(法興王19)新羅に投降した金官伽耶の王であり、祖父はムリョク武力、父はソヒョン舒玄です。
 
<ドラマのキムユシン金庾信>
 
母は万明夫人で真興王の末裔です。
母方の父親はこの結婚に大反対でしたが、理由は伽耶の王族がチンゴル真骨貴族に編入されては居る物の、王族出身と通婚するほど大貴族では無かったからです。
新羅から金官伽耶の王族の末裔は新羅の王族の金氏と区別して、新金氏と称される事も有ったそうです。
「三国史記」には、ソヒョンと万明が野合したと記録されて居ます。
 
 
これは両方の婚姻が破格的、極めて困難な状況で行われた事を示しており、その間に生まれた金庾信の出身がチンゴル真骨貴族と言っても当時新羅を主導した大貴族とは差があった事も示唆して居ます。
 
金庾信は15歳にファラン花郎になって龍華香徒と呼ばれる彼の郎徒を導きました。
その頃のファラン修練過程の活動は、修練と学びの過程になりました。
新羅に帰化した王族である彼ら一族で戦功を立て頭角を現した人物を見つける事が出来ますが、新羅の土着貴族の間で彼らが活路を開く為には、自らの戦功とコネが必要でした。
 
金庾信はその間数々の戦功を立てる一方、金春秋に接近します。
妹を金春秋と婚姻させる事により勢力拡張を図ろうとしたのです。
 
その際の有名な説話が残ります。
金春秋と情を通じて妊娠した妹を火刑にしようとして、その事実を知った善徳女王が仲裁し劇的に婚姻を成功させたのです。
 
妻に武烈王(金春秋)の第三の娘、智炤夫人を娶り、こうして両勢力は婚姻を通じて固く結び付きました。
 
 
金庾信は上述の旧貴族の鎮圧に重要な役割をし、彼の影響力も大きくなりました。
金春秋の武烈王としての即位にも彼の緊密な支持が大きく作用した様です。
 
642年金春秋が高句麗に向かって離れる時、金庾信は押梁州の君主となりますが、この時から新羅で重要な軍事職を務め、彼の活躍は顕著になります。
 
金春秋は要衝の地テーヤソン大耶城が百済に陥落されて高句麗に援軍を乞うたものの、むしろ新羅が高句麗から火事場泥棒で奪取した漢江上流流域の領土返還問題を持ち出され決裂し、高句麗に抑留されやっとの事で脱出しました。
 
このような大耶城での敗北と高句麗の外交の失敗は彼ら新貴族の政治的野合をさらに強固にする結果をもたらしました。
 
高句麗との同盟に失敗すると、金春秋は唐との関係強化の為に648年(真徳女王2)に唐に派遣され、積極的な親唐政策を推進します。
 

 

そして唐の太宗から百済の攻撃の為の軍事支援を約束受けました。
金春秋による唐への事大主義的政策は650年に新羅がそれまでの全期間を通じて使い続けてきた自主的な年号を捨て、唐年号である「永徽」を新羅の年号に採用した事に端的に現れて居ます。
 
一方金春秋は、帰国後王権強化の為の一連の内政改革を主導します。649年中朝衣冠制の採用、651年の王の正朝賀禮制の実施、プムジュ稟主の執事部への改編など漢化政策がそれです。
 
 
金春秋によってなされた内政改革の方向は、唐の後援勢力としての王権強化でした。
即位するとリバンブギョク理方府格60条を改正する等、律令政治を強化しました。
 
655年(武烈王2)元子のボプミン法敏を太子に冊封、王権の安定を図ります。
656年には唐から帰国したキムインムン金仁問を軍主に、658年には唐から帰国した文王を執事部中侍に新たに任命して直系親族による支配体制を構築しました。
 
そして彼の即位に絶対的な貢献をしたキムユシン金庾信を660年にサンデドゥン上大等に任命して王権をより專制化するキッカケを作りました。
 
外交では親唐外交を通じて唐を後援勢力にして、内政は側近政治で王権を安定させた後、高句麗・百済の戦争を行いました。
 
655年に高句麗が百済・靺鞨と連合して新羅北境の33省を攻撃・奪取すると新羅は唐に救援兵を求めました。
 
唐の程名振と蘇定方の軍事が高句麗を攻撃しました。
また、659年には百済が頻繁に新羅の辺境を侵犯するので、唐の軍事を乞い、660年から本格的な百済征伐を推進しました。
 
 
3月に蘇定方をはじめとする水陸13万人が百済を攻撃して、5月に王は太子ボプミンと金庾信・眞珠・チョンジョン天存などと共に自ら精兵5万人を率いて唐軍の百済を攻撃して居ます。
 
7月には、唐軍と連合してファンサンボル黃山原戦闘階伯が率いる5000人の百済軍を撃破して、百済の首都サビ泗沘城を陥落させました。
続いてウンジンソン熊津城に避難していた義慈王と王子扶餘隆の降伏を受ける事によって、最終的に百済を滅亡させました。
 
10月に百済地域でまだ征服されていない尒禮城など20余城の降伏を受けました。
 
新羅が百済を征伐すると高句麗は660年に新羅の七重城を攻撃して来ました。
661年には高句麗の将軍、惱音信が靺鞨軍と連合して述川城を攻撃し、再度北漢山城を攻撃しましたが、城主である大舍冬陁川が防御して居ます。
 
<新羅・唐戦争>
 
661年、武烈王は在位8年で逝去しましたが、
齢(よわい)59歳でした。
永敬寺の北に葬られ、諡号はムリョル武烈廟号は太宗です。
 
武烈王に続けて文武王が即位した後も金庾信の政治的比重は強く、661年(文武王1)6月には高句麗に遠征しました。
 
この遠征で彼は高句麗のピョンヤン平壌城を攻撃中、兵糧で苦境に立たされた唐の軍隊を支援する為に、高句麗の中心部まで往復する決死の輸送作戦を繰り広げており、唐軍が撤退する翌年正月、高句麗軍の待ち伏せと追撃を退け帰りました。
 
663年には百済復興を図る百済の流民とそれらを支持する倭の連合軍を撃破し、664年にも百済流民がサビで蜂起しようとする秘密計略を露見させ平定しました。
 
 
とうとう新羅と唐の連合軍が高句麗を滅亡させた668年、新羅軍の最高司令官、大摠官となりました。
 
その後、新羅の支配層の長老として、高句麗滅亡後本格化した唐との闘いで指導的な役割を果たしたと考えられます。
 
672年石門ポルの戦いで新羅軍が唐に惨敗した時、文武王が彼に助言を求めた事実が記録に残って居ます。
 
 
彼は638年79歳の長寿ののち逝去しました。
興徳王代に興武大王に追封されました。
 
三国史記における彼の扱いはかなり大きく、格別です。
これは著者金富軾が新羅貴族の末裔で、
新羅正当主義に基づき自らの正当性を示す為と見られます。
 
なので、彼らの活躍も多少割り引いて観察する必要が有りそうです。
 
ドラマでも沢山描かれて居ます。
ドラマ「大王の夢」が代表的です。
 
 
<参考文献>
三国史記
한국민족문화대백과사전