ワンポイントコラム
<韓国朝鮮歴史のトリビア>
135.古朝鮮の謎⑤衛満朝鮮
 
 
 
 
檀君神話と関連して古朝鮮の成立過程から
歴史を俯瞰して居ますが、神話世界は前回で終了したものの、この流れで古朝鮮滅亡まで見たいと思います。
 
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箕子朝鮮(衛)満朝鮮により滅ぼされ新たな王朝に代わりました。
(衛)満朝鮮は日本では「衛氏朝鮮」韓国では「ハン韓氏朝鮮」とも呼ばれますが、私が衛の字にいつも括弧(カッコ)を付けるのは、後述しますが共和国学会で(ひいては私も)満の名字を衛と認めないからです。
 
共和国では単に満王朝マンワンジョと呼んで居ます。
混乱を避ける為「衛満」と記しましたが、満王朝とさせて頂きます。
 
古朝鮮 満王朝「史記」朝鮮伝「漢書」朝鮮伝などの中国の文献に登場する古代国家で、紀元前194年から西暦前108年まで存続したとして日本学会でも認めて居ます。
 
記録によると燕王盧綰が漢の国の謀反に失敗して匈奴に逃げました。
その下にあった満は群1,000人余りを集めて東のペス浿水を渡って
サンハジャン上下障という所に定着しました。
 
 
当時は古朝鮮チュンワン準王の時代で、
満は遼東太守から辺境を守る外臣の肩書きを
受けました。
 
所が、次第に彼はチンボン眞番朝鮮と燕・齊の流民を集めて支配をして、終いには準王を追放してワンゴムソン王儉城に都を定めました。
この時中国漢の惠帝1年(BC194)です。
 
古朝鮮 満王朝と関連して先にも述べた様に、まず満の出自について議論が有ります。
すなわち彼を古朝鮮系 流民と見る向きと漢系 燕人と見る向きです。
又、彼の元来の名前は「滿」で、彼を燕の朝鮮王国故地 占領により燕に留まる事になった朝鮮の土着勢力の子孫と見る向きが有ります。
 
<サントゥをした青銅器>
 
 後の史料で中国式の姓「衛」氏が与えられて居ますが、当初の史料では満とだけ出ており、名前も非中国式で、朝鮮の土着勢力と見られるのです。
共和国ではその為、中国人と強調する為に後付けした「衛」氏を拒否して居ます。
 
又、満が燕から朝鮮に入国する時「サントゥ髷を回し、朝鮮服を着た(魋結蠻夷服)」
と描写されており、また国号をそのまま朝鮮とした事から見ても朝鮮人系の子孫と思われます。
 
満は中国語と朝鮮語に堪能し周辺事情にも精通しており、周辺の国チンボン眞番などを服属させて領土の拡張を図った事から見てもかなり有能な武将であり、政治家であったと見られます。
 
<古朝鮮の土器>
 
彼の正確な死亡時期は分かりませんが、彼の家系は名前が不明な息子を経て孫のウゴ右渠と太子チャン長に繋がるとされます。
 
孫のウゴワン右渠王の時代、西暦前109年漢武帝の侵攻で西暦前108年滅びました。
 
したがって満王朝の統治期間は彼から右渠に至る3代の87年間ですが、満王朝は王権が世襲される程、国の基盤をしっかりと備えていたと見られます。
 
古朝鮮 満王朝の国家的基盤は右渠王の代に
漢の武帝の遠征軍と1年余りの間対峙した事実で推測出来ます。
 
<漢の武帝>
 
漢の武帝の侵略を受けた直接的な原因は、周囲のイェ濊弁辰(三韓:辰国)の朝貢路や貿易路を妨害した事に有りました。
 
満王朝は地理的に漢とこれらの国々の中間に位置しており、軍事力を利用した貿易の管理・制御により相当の中間利益を得て居たと推測されます。
不満に思った漢の武帝は遠征軍を起こし、満王朝を執拗に攻めました。
 
流民集団と亡命人を統率して、周囲のいくつかの部族を征服していった満王朝はその性格上、征服国家で有ったと規定出来ます。
 
<古朝鮮の遺物>
 
古朝鮮 満王朝が征服国家だったという事実は「後漢書」東濊条に掲載された「元朔1年(西暦前128)イェグン濊君ナムリョ南閭が右渠を裏切って28万人を連れて遼東に行った」という記事や「三国志」魏書東夷伝に収録された「朝鮮相リョクギェギョン歷谿卿が右渠に反し2,000戸民を連れて辰国に亡命した」という記事からも、支配層と土着勢力の間に軋轢があった事を物語って居ます。
 
満王朝の記録に登場する人物ではと孫の右渠、ひ孫をはじめとする王族、そして朝鮮相の路人韓陰、大臣の成己、将軍の王唊、ニギェサン尼谿相のなどです。
これらが満王朝の行政、軍事を担当した高位閣僚だったと推測されます。
 
< 大臣の成己を主人公にした共和国の小説>
 
古朝鮮 満王朝は支配層と非支配層の身分階層が存在しており、身分制度は支配層・平民と奴隷に区分されて居たと思われます。
 
また、当時満王朝の人口は少なくとも50万人以上有ったと考えられます。
この様に50万人以上の人口を持つ古朝鮮社会は非常に複雑な様相を呈していて、それに相応する法令体系も存在したと推定されます。
 
<犯禁八条>
 
「漢書」地理志によると、古朝鮮は箕子によって制定された「犯禁8条」が有ったとされますが、後に楽浪の影響を受けてか60余条に増え「ランランギェリョン樂浪契令」も制定されて居ます。
 
律令の実行力は軍事力と警察力によってのみ担保されます。
将軍王唊の存在、朝鮮による遼東東部都尉ソプハ涉何の殺害、ワンゴムソン王剣城を中心に漢武帝の遠征軍に1年余りの間、抵抗した事実などから当時の朝鮮の軍事力が無視出来ない程だった事を推測する事が出来ます。
 
当時考古学上すでに鉄器時代(BC700年頃〜紀元前後)に達した時期で、満王朝でも鉄製武器の使用が一般化され戦車も利用されて居たと考えられます。
 
 
結論として(衛)満朝鮮は人口の増加とそれに伴う土地の拡張と確保、武力による近隣の部族の征服、鉄製武器の使用と専門職人の存在、余剰食料の確保、律令組織、長距離貿易、朝貢・貿易の中間利益、軍事力を維持する為の各種制度、税務などの複合的な連結で存在したと言えます。
 
この様なシステムが短期間で構築出来る訳は無く、この事は日本学会で積極的に認めて居ない満王朝以前の古朝鮮の強盛を証明する有力な手段ともなります。
 
 
当時古朝鮮で使用された文字や言語、そして芸術・文化などはまだ明らかになって居ません。
当時はおそらく漢字が使用された物と推定されます。
たまに出土されている中国の明刀錢五銖銭貨泉などは、満王朝と中国との交易関係だけでなく、文字の使用の間接的な史料となって居ます。
 
これから古朝鮮 満王朝時代の初期鉄器時代の研究、未だ確定して居ない中心地ワンゴムソン王剣城の正確な位置を確定する為の発掘が不可欠で、それにより満王朝、古朝鮮全般の実体がより具体的に明らかにされる事が期待されます。
 
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
 

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