子供のころから御香宮を「ごこうぐう」と呼んでいた。だけどMKタクシーの無線配車オペレーターは「ごこうのみや」と叫んでいる。どちらでもいいのだが「みや」のほうに尊厳があるように思える。けれど「ごこうぐう」に愛着があって言い方は変わらない。

 

   

▲御香宮前の鳥居で道は千九なっている。

 近鉄桃山御陵駅から東へ徒歩1分、京阪伏見桃山駅から徒歩3分の距離。どちらからも上りの坂道だからプラス1分くらい足した方が時間的には正しいかもしれない。JR桃山駅からだと徒歩5分かな。朱色の大きな鳥居が目印で迷うことはない。

 1962年くらいのこと。父の車が鳥居の前でエンストした。JAFなど道路サービスが普及していない時代で、父は友人のトラックに牽引してもらうことにした。とはいえ助けに来られるには翌朝。すぐ近くに交番があってお巡りさんに事情を説明しフロントガラスに「故障」と張り紙をして一晩放置した。翌朝車を修理工場まで動かした。のどかな時代であった。そのエンストしたところに高札がかかっている。「黒田節発祥の地」とある。久しぶりに前を通ったので気づかなかった。 安土桃山時代の黒田といえば秀吉の軍師・黒田官兵衛。私には岡田准一ではなく田村髙廣の印象がある。一族の頭領で官兵衛の嫡男・黒田長政は北九州を支配していた。だから私はてっきり黒田節と炭鉱節は福岡県が発祥の地、博多民謡だと思っていた。ところが高札などをさらりと読むとその誕生秘話が面白いので発祥の地といわれる理由をまとめてみた。

 

秀吉の子飼いで賤ヶ岳の七本槍で高名な福島正則屋敷で宴会が開かれた。同屋敷は御香宮の隣町である。黒田長政は家臣の母里太兵衛を使いに出した。正則、太兵衛も酒豪。長政は酒席でのトラブルを懸念して太兵衛に禁酒を命じる。しかし先に酔っ払った正則は、調子に乗って太兵衛に大盃で飲めと勧めた。今様ならパワハラといえるほどで「黒田の家臣はこれほどの酒も飲めないのか」と半ば侮辱的に飲酒を強要。固辞する太兵衛。だが正則はさらに「これを飲み干せば、どんな褒美でもやる」と畳みかけた。太兵衛は、それならばその杯を飲み干した。そして太兵衛は正則から槍を貰い受けた。その槍は「日本号」と呼ばれ豊臣秀吉から下賜された特別なものだった。素面になった正則は、太兵衛に使いを出して槍を返してほしいと頼んだが太兵衛は断り、のちの朝鮮出兵にこの槍で武功をあげた、とストーリー。儒学者・貝原益軒が著した「黒田家臣伝」にもエピソードとしてあるそうだ。武士に二言はないはずだが、秀吉に知れたら切腹ものだ。やはり返してほしかったようだ。

「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士(くろだぶし)」※イラストはフリーイラストから

 なるほど黒田武士と福島正則とのエピソードを歌に、黒田武士の勇猛果敢さをアピールしているのだ。伏見が酒どころだからこの歌が生まれたわけではない。が、私の知っている限り福岡、佐賀の人たち、特に女性は私が知る限り酒豪が多い。