「気づき」と「人間力」の教育 一尾塾 -30ページ目

「気づき」と「人間力」の教育 一尾塾

学校、塾、キャリア、子育て、家族、心理学、脳の活性化!全部やります!
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引き続き、「幸せ」の戦後史

第1部 壊れかけた労働社会

第3章 職場シンドロームの出現

構造改革の掛け声によって、企業も体質改善に乗り出す。

結果、労働分配率が80%から60%にまで下げられた。企業としては改善成功。

それによって失われたものがある。

企業の中間共同体がなくなった。

職場は職責を全うするという役割だけではなく、知識の交換や共有、創造、そして、学びの場でもあった。

この後者に値する雰囲気がなくなった。

感覚として「奥行き」がなくなった。

その理由は業務負荷が高まったことや余裕がなくなったことが挙げられるが、この著者は違った視点。

構造改革により、育てるべき若者を失った中間共同体が衰退したことにより、職場の器が小さくなってしまった。

その結果、2005年以降、メンタルヘルスの悪化が取り上げられた。

 

2008年に出版された「不機嫌な職場」(高橋克徳・河合太助・渡部幹)より引用

 

”職場がおかしい。何か冷たい感じのする職場、ギスギスした職場が増えている。

会話が少なく、互いに関心を持たずに、黙々と仕事をこなしていく。

深夜残業が続く人や切羽詰った人がいても、気がつかないのか、気づかないふりをしているのか、お互いに声を掛けようともしない。

そんな状況の中で、まじめな人、自分でどうにかしなければと責任感の強い人からつぶれていく。

精神的あるいは体力的に追い込まれ、休職や退職する人まででてきてしまっている。

何かおかしい。”

 

これを成果主義や終身雇用の結果だとしているが、著者は違う。

その職場の空間の意味がなくなったから。

そして、その空間の雰囲気の特徴としては、

自分のハンドリングできる範囲からでない。

目の前のことだけやる、あるいは回避する

展望ないまま大きな負担を背負ってしまう。

つまり、職場と自分の関係がよくわからなくなったということ。

 

不可解な早期離職

雇用が不安定にも関わらず、7・5・3転職が増えている。

これにもミスマッチ説や年功制残存説などの会社側の視点があるが、そうではなく、若年層の期待と現実のギャップの大きさにあるとしている。

2000年~2012年にかけて「転職は、しないにこしたことがない」「今の会社に一生勤めようと思っている」というアンケートに対しての回答は右肩上がり。

前者は20%から60%に、後者は10%から30%に。

 

これと合わせた資料として、「自分にはかなえたい夢がある」「社内で出世するより起業して独立したい」

前者は、2000年~2012年にかけて、60&以上をずっとキープしとり、最後の5年は70%を越えている。

後者は、2003年30%を越えていたが、2012年は12%程度となっている。

 

これらを合わせて著者は、「自分の夢を会社にいながら、会社で叶えたい」という期待としている。

こうなってしまうのは「あなたのやりたいことは何ですか?」スタイルの今の就活にも責任はあるとしつつも、

実は若者も大半はそれが難しいという現実に対して「知らないふり」をしているだけだろうということ。

そして、さらに多少できのよい学生は、「自分はそうならない」「自分だけは別なのだ」という思いも持ちやすいと聞いたことがあるとしている。

期待のイリュージョンが、現実の認識にふたをかぶせてしまっている。

そして、現実に直面したときのギャップが早期離職に走らせているのではないか?

 

では、その過剰な期待の本音とは?

結局は、雇用ポートフォリオの「長期蓄積能力活用型グループ」という狭き門に入りたい!

そして、その特権に浸りたい。だって、がんばってきたんだもん!という権利意識。

その結果、職場でせっかくに手にした特権(正社員)を奪われそうになると、不機嫌で不可解な職場が生み出される。

 

新しい社会意識「自己責任論」

そして、ここに入れなかった層を納得させる理論として、「自己責任」という言葉が使われた。

90年代後半に、日本社会は構造的な変容を遂げた。

それにより「努力してもよりよい明日を手に入れることができるわけではない」という苦い事実を飲み込まざるをえなくなった。

なんとなく「誰もが成功のために努力する機会に巡り合える」という機会均等論が維持できないと感じていて、それでもなんとかここにしがみつこうとして、

「誰もがチャンスとリスクを含む「選択肢」に遭遇する」という変換をした。

ここで一気に自己責任の度合いが増した。

この「自己責任論」は90年代に生まれた新しい《社会意識》だとしている。

 

感想

2000年に就職をした自分としては、ドンピシャな感覚がある。

職場はあくまで能力を発揮する場であり、社員はすべて競争相手(ここでいう長期蓄積能力活用型グループ)という感覚を持っていた。

企業はいろいろいうけど、結局社員の尻を拭くつもりなんてさらさらないんだろうと思っていた。

幸いにも私の世代は、今ほど「自分の夢」や「やりたいこと」を煽動するような風潮がなかったような気がする。

とにかくできることをやって成長していくことが最優先、と考えていた。

そして、ここでいう「長期蓄積能力グループ」の現実と自分が思う現場とのはなはだしいかい離により、そのコースから外れた。

では、学生のときそれを知らないふりをしていたのかというと、そうではなかったと思う。

本当に知らなかったのだ。会社が何なのかということは本当にわからなかった。

そして、出した結論が転職だった。

そう考えるとこの本に書かれていることをなぞったかのように、ある程度自分の歩みがあるな、と感じた。

そして、その自分の背後にはいつも「自己責任」という言葉は張り付いていた。

私は幸いにもその「自己責任」をプラスの面として捉えることができて、ここまで来られているが、それをマイナスにとってしまう人も結構いると思う。

 

今現実にこの社会構造は変わっていないと思う。

そうであるのだとすれば、いかに「自己責任力」を高めていくかということは教育として大事だと思う。

この自己責任力は、チャレンジする力だと私は考えている。

なぜならば、責任を取るということは、目の前のことに対してベストを尽くし、自分のやっていることを認め、同じことを繰り返さぬように新しい生き方にチャレンジすることだと捉えているから。

 

どちらかというと今のところは、この本では、現在の構造のマイナス面が大きく取り上げられているような気がするが、そんななかでも私は非常に幸せに暮らすことができている。

きっとここのギャップにこの時代に幸せに生きるために必要なことが含まれているのかなと思っている。

不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書)

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  • 出版社講談社

引き続き、「幸せ」の戦後史

第1部 壊れかけた労働社会

第2章 雇用ポートフォリオの誕生

1995年 日本経営者団体連盟が発表した

「新時代の「日本的経営」-挑戦すべき方向とその具体策」

これこそが労働社会において「未来への希望」失わせた元凶であるとしている。

このレポートでは、リストラ(再構築)する際の指針として、人材を3つに分けている。

1・長期蓄積能力活用型グループ:コア機能を担う。継続的雇用

2・高度専門能力活力型グループ:課題解決スペシャリスト。有期雇用

3・雇用柔軟型グループ:契約社員、パートタイマー、アルバイター、派遣社員などの多様な雇用形態。

これが雇用ポートフォリオ。

 

 

もともとポートフォリオは資産を管理するもの。

なぜそれを雇用に適応させざるを得なかったか。

2つの理由が挙げられている。

1つはアメリカ寄りのグローバルスタンダードな会計基準がモノサシとして使われたこと

将来性も大事だけれど、まずは目の前のキャッシュフローを重視する流れとなり、それにより、持っている資産(人材)を変動費化することに繋がった。

2つ目は、保険統計主義。

これは、「正義を追及するよりも被害を最小限にすること」ということ。

これらにより、昇格制度も変わった。

旧:卒業方式・・・今やっていることがすべてできるようになれば昇格

新:入学方式・・・能力が満たされなければ、昇格への道は永久に開かれず、降格もある。

ようするに、被害があったとしても、ある程度の範囲内で収められる状態で管理したいという現れ。

結果、「利益の出る体質を生み出したが、一方で日本の企業とそこで働く人々の心を損なった面がある。」とのこと。

そして、今にあくせくするのみで、未来への希望が失われたという流れ。

そして、これが「社会意識」として浸透していった、といことか。

 

確かにそう考えてみると、

「ないよりあったほうがいい」「できないよりできたほうがいい」

という考えの根本が、いかにリスクを減少させるか、という保険統計主義に基づいているような気がしないでもない。

それがそのまま子育てや教育を侵食していっている気がする。

いかにリスクを冒さないように育てられるか。

だったら、受験は少ない方がリスクは減る。だったら中学受験をして、それが付属だったらなおさらリスクは減っていいというようになる。

また、大企業に入れば安泰という考えが、すでに虚体化しているにも拘わらず、現実としての保険統計主義と入り混じって、なんともいえない変な緊張を生み出し、不安をあおっているのかもしれない。

そして、それが今の「社会意識」として存在している。

 

だとすれば対策は、その虚像にいつまでもしがみついていてはいけないわけだ。

企業の基本方針は、今のところこのブログの最初に上げた3つの雇用ポートフォリオを元に運営していると考えてもいいと思う。

大企業に入ったとしても、どのポートフォリオに属するかはだれも分からないし、そこで勤め上げられる保証はもうないのだという現実を受け入れて、自分のキャリアを考えていく。

そして、どうせならば、その保険統計主義を徹底的に自分自身の人生に取り入れて、自分でリスクマネジメントをしていくキャリアデザインが必要となってくるのではないか。

 

そして、学校の先生はここを一番感じにくい職種であると思う。

しかし、数多くの生徒をこういう社会に送り出すわけだから、知らなかったでは済まされないと思う。

今の時代、これからの時代がどういう時代になっていくのか、そこで必要な力は何なのかということを真剣に考えて、教育に携わっていかなければならないと思う。自戒も込めて。

「幸せ」の戦後史

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ようやく読み進めている「幸せ」の戦後史

全体の流れは目次をどうそ。

「幸せ」の戦後史

最初に「社会意識」とはなにか、ということについて。

いきなり「ふるさと」を伝える流行歌から始まる。

知っている曲もあるけれど、知らない曲もたくさん。また改めてそれぞれの曲も聴いてみよう。

ざっくりいうと、今はもう帰ることのできる「フルサト」は心の中にしかないのでは?という投げかけ。

そういわれてみれば、私の「フルサト」といったら、祖父母の田んぼに囲まれた吉浜を思い浮かべるが、それは昔でいう「ふるさと」ではないんだろうな。

その後、社会意識とはなにか?ということについて説明がある。

社会の実体そのものが変わり、社会意識全体が変わるものでもあるし、実体ではなかったただの意識が社会を変えていくこともある。

例えば、実際に核家族化になってきたけれど、実は実際の数値はそれほどでもなかったかもしれない。しかし、そういう意識が広まっていくことで、実際に気が付いたら自分も核家族として生活している、という感じか。

お互いがお互いを食らいながら、全体としてカタチを変えていくという感じ。

 

次に、この社会意識をどのような方法で捉えるか。

「社会意識」があふれ出したと思える行動や言動を社会事象や文化事象から取り出し、その背景を探るというやり方。

 

そして、第一部「壊れかけた労働社会」第一章

リストラがやって来た

平成リストラは日本に「働く中間階級のためのきちんとした労働市場」が形成されていないまま行われてしまった。

当時、中高年のリストラを悲哀ややりきれなさを綴って世の中の意識として刷り込まれたが、実は一番締め出されたのは若年層。

しかし、その事実を隠蔽するかのように、「パラサイト・シングル」という言葉や「引きこもり」「少年犯罪」などを取り上げることで、若者に対する嫌悪や恐怖を社会一般に流布させ、既得権益を持っている中高年層が若年層を排除しようとした。

リストラという排除行動が求められたとき、一番弱い若者が標的になり、はじきやすい存在であったために、正当化するために「若者嫌い」がつくりだされたのではないか、という考え。

 

1950年代~60年代に欧米は「包摂型社会」のピーク。包摂=同化。

多数者へ同庁が重視される社会。(イギリスの社会学者のジョック・ヤング)

これが、「排除型社会」へ変貌していった。

1・労働市場からの経済的排除・・・平成リストラ

2・市民社会の人々で起こった排除・・・若者バッシング(欧米では移民や異民族などが攻撃を受けやすいが日本は同質的であるために若者がターゲットとなった)

3・刑事司法制度と個人プライバシー保護の領域で広がっている排除活動・・・日本では、少年法の刑事罰対象年齢の引き下げなど(基本は厳罰化)

このリストラというものが、近代社会の大きな変容に発するものではないか。

そして、これに伴って様々な変化が「いわば猫の歩みのようにこっそり引き起こされていく」

この変化の正体を追ってみる必要がある。

 

以下、感想

このリストラの部分を読んで、ちょうど昨日読んだ「いじめの変化」と重なる部分が多いと思った。

スタートはまずは第一期、第二期である、劣っている者、優れ過ぎている者をイジメる時期が一つ目の労働市場からの排除

次は第三期の、劇場型(イジメる人、いじめられる人、観衆、傍観者)のなかでいじめが行われる。これが市民社会の人々で起こった排除。

そして、現在第四期、仲のいい仲間の中でさえいじめが起こっている。ここは個人のプライバシーの中にまで入り込んでいる排除活動にあたるのではないかと思った。

社会の実態が意識化し、空気感としてただよって、それに敏感な子どもたちに伝わっているのではないかと感じた。

 

現実の社会を変えるのはなかなかパワーがいると思う。創造と破壊というくらいだから、それこそ破壊するくらいのパワーがいるかもしれない。

ただ、お互いが影響し合っているという前提を考えれば、子ども社会を変えることで、大人社会を変えることもできる可能性はあると思った。

どちらにしろパワーはいると思うけれど、後者の方が、創造的パワーが主となるような気がしている。

 

引き続き「壊れかけた労働社会」の部が続く。

「幸せ」の戦後史

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児童心理を読み進める。

今回は2013年8月増刊号”改めて「いじめ対応」を考える”

気になったところ、考えたところ。

 

1・いじめの変化

第一期:昭和60年~平成にかけて

身体的特徴やマイナスの特徴をあげつらって、いじめの標的が選定されていた時期

第二期:平成初期が中心

プラス過ぎる特徴をもつ生徒がターゲットになった。自分たちの仲間の許容範囲が狭くなった。

第三期:平成10年前後が中心

見えなくなってきた。見ようとされなくなってきた。ひとりひとりにとって身近になってきた。身近になってきただけに自分への飛び火を怖れて、無関心を装う傍観者が増えたことで、見えにくくなってきた。

第四期:平成20年前後が中心

一定の人間関係を持つ仲間集団の中にいじめが入り込み始めた。そこにネットいじめが拍車をかけ、ほとんど見えなくなった。

 

2・「いじめっ子」の言動~その心理的理解と指導援助~

5つの記事が掲載されていたが、だいたい共通することは、いじめっ子を高圧的に権力的に抑えつけるのではなく、集団のなかで考えていこうというスタンス。

見えないイジメ、皆が手を染めてしまう可能性のある現在のいじめのなかで、それを高圧的に指導しようとしたとしても、おそらく完璧にスルーされるか、多くを敵に回すかということになってしまうような気がする。

事が起こってからではなく、起こる前やいじめの入り口になるようなことを見聞きしたりしたとき、そして、定期的に、「いじめ」ということに対して投げかけて、振り返る時間を設けることはできることかもしれない。

 

3・「いじめられっ子」の言動~その心理的理解と援助

6つの記事が掲載されていた。

現代のいじめの中での傷つきで一番大きいのは、信頼していた仲間から裏切られた、という感覚。

一定の仲間関係のなかでいじめが行われるようになった現代。

見えにくくなり、傷つきが深くなる可能性が高くなるということは覚えておきたい。

 

4・いじめの予防に向けて~担任教師へのアドバイス

ここも6つの記事。

全体としては王道。やはりショートカットはないと思う。

自己肯定感を上げる。信頼関係を築く。環境を整える。

あとは、「いじめ心」は誰にでもあるという前提に立つこと。

「いじめ行動」は絶対にいけない、という毅然な姿勢を見せつつも、人は「いじめ心」を持ってしまうことがあるということも許容しておくことは大事だと思う。

なぜならば、あまりにも強い光は、それに応じて強い影が作られるように、すべてを白か黒にしてしまうと、戦うか相容れない(ここの場合は、絶対に見せない、知らせない)ということにつながるような気がするから。

 

・家庭

こういった見えないイジメが特徴的な現代、家で何ができるのかということになる。

ひとつの事件の判例が例に上がっていた。

いじめられて身体に長期的なケアが必要になってしまった事件で、学校設置者(自治体)と加害児童の保護者に対し、約273万円の支払いを命じた判決。

加害児童の保護者は現場にも学校にもいなかったのに、判決はその責任を認定したということ。家庭外にいたとしても保護監督すべきであるということ。

”(親権者)は少なくとも社会生活を営んでいくうえでの基本的規範の一つとして、他人の生命、身体に対し不法な侵害を加えることのないよう、自分の子に、常日頃から社会生活規範についての理解と認識を深め、これを身につけさせる教育」を行う義務、すなわち保護監督義務がある。「他人の生命、身体に危害を加えるような社会生活の基本規範に触れる性質の事故である場合」は、「たとえ子どもが学校内で起こした事故でも」「保護監督義務を怠らなかったと認められる場合でない限り」責任が問われる、と結論付けた。”

普通に考えれば、普段の生活のなかで伝えているだろうことだとは思うけれど、今一度、本当に伝えられているだろうか、知らず知らずのうちに、それを許容してしまっていないだろうか、ということを振り返ることが、まず家庭でできることなのかもしれない。

 

文部科学省のHPより→いじめ対応のヒント

昨日に引き続き、多賀先生の講座の振り返り。

前半についてはこちら→http://www.ichiojuku.com/?p=2999

前半の最後に少しだけ、教師のタイプ別対応の仕方を解説。

うまくやるためには、なんでもかんでも自分の思いをそのままぶつければいいというものではない、ということ。

先生にも色々な先生がいるわけだから、それを踏まえて接することが大切。

 

そして、後半スタート。

後半は、

ヒドゥンカリキュラム

について。

ヒドゥンカリキュラムとは・・・

・ヒドゥン=隠れた

・潜在的教育効果

・知らないうちに子どもたちに送っているメッセージ。

大切なことは・・・

意識すること。

 

いくつか例があがっていましたが、ふたつほど。

 

マイナス面にこだわる。

大人は良かれと思ってやっているのに、全然伝わっていない。

ここのヒドゥンカリキュラムは、子どもの自己肯定感を下げているということ。

まずはそこに気づくことが大切。

 

普段気づかずに使ってしまう言葉

「今日は、がんばったね。」

今日は、の「は」は限定の「は」。他の日も子どもはがんばっているのに、このように限定されたら、なんだか毎日がんばっているのがあほらしくなってくると思う。まさにやる気をそぐというマイナスのヒドゥンカリキュラム。

 

他にもいくつかありました。

いろいろ学んで、それに沿ってやっているにも関わらず、改善が見られないなぁというときは、自分のとっている行動にマイナスのヒドゥンカリキュラムがあるのではないか?と問うてみるのがいいかもしれない。

 

子どもが求めているのは「ぬくもり」

これを伝えることをしっかりとしたい。

これは抽象的なことではなくて、家が温かいとか、ご飯が温かいなどの具体的であり、物理的なことも含む。

ユーモア、優しい言葉、笑い、安心感がぬくもりを生み出す。

 

ということで、簡単ではありますが、振り返りでした。

実際の講座はこの10倍くらい内容が濃かったです!

ちなみにこのヒドゥンカリキュラムについては、多賀先生の本が出版されているので、ぜひ読んでみてください。

社長さんなどにも評判がよいとのことです。

 

ということで、今年も多賀先生に本当に素敵な講座をしていただきました。

年初めの学びとしてとても充実した時間でした。

多賀先生、本当にありがとうございました!

ヒドゥンカリキュラム入門―学級崩壊を防ぐ見えない教育力―

ヒドゥンカリキュラム入門―学級崩壊を防ぐ見えない教育力―

  • 著者多賀 一郎
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  • 出版日2014/02/06
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  • ISBN-104181194116
  • ISBN-139784181194116
  • 出版社明治図書出版