行動の別名は変化であり、
それ故、現実おける行動は大事ではあり、その意味は小さくはない。
しかしながら2000年を境に(人によっては1970年台を境に)
行動による影響度合い、反応具合が変わっている。
大雑把に言えば世界が変わった。
総合的な変化の為、この部分がとは言いづらい。
故に、世界が変わった、時代が変わった、との表現が最も適している。
言うなれば、101匹の猿現象が分かりやすい。
行動が変化を促す、因果応報の理は変わらない。
あわせて依然と変わらない世界があり、変わったと感じないかもしれないが。
行動に対する人の反応、価値観、つまり受け方、受け手が変わっている。
理由なき愛や自由という叡智、委ねるという叡智、見放す愛という叡智が広く知られるようになった。
情報を発信するスピリチュアラーも「こんな人とは距離をとる」や「自分軸での生き方」という類のものを
発信し、それを受け入れる人々も少なくない。
それらの叡智は本質であるが故、
そのようなスピリチュアル情報に接しなくても、
幸せや自由、癒し、安らぎを追求する人生において、自然にその叡智に人は気づき、そのようになる。
その結果、幸せではない心の状態で人と接するなら、
他人の反応は距離を置く形となる。
然るに、行動の影響は限定的となり、反応も薄くそのような度合いや具合となる。
変化以前の様に、欲や刺激により他人をそそのかしたり、コントロールすることは出来なくなっている。
それでも、出会う人々の中で、依然のようにそそのかせたり、コントロールできる者が現れようが、
その者の中にも相手をそそのかしたり、コントロールしたりする程度の者であり、
その者同士でやり合う関係と世界となる。
その世界は地獄や鬼畜のような世界と言えなくもなく。
そのような人物像は人が思う、近くにいて欲しい人、繋がっていたい人、接したい人や人物像とはかけ離れているのは明らかであり、
癒しや安らぎ、連帯感、協調、幸せは感じずらいのは最もとなる。
このように、以前の様に行動が影響する、支配の強い時代は終わった。
それ故、現代はこのように生きるが好かろうと思う。
自身が幸せや安らぎや癒しを感じる、心の状態で在る時に行動し、
そのように心を保てない時は行動しない。
その状態で行動するよりは、行動しない方がまし。
行動しないという行動、その選択は何もゼロ、無建設、無意味を意味してはいない。
そこには、存在という未知なる力、が存在する。
そのような不幸な状態には静かにそれに委ねるが好かろう。
行動や身体を制御すれば、心も静かになり、想いを放棄すれば理由なき幸せが現れる。
そうしてから、考えることをし行動するのだ。
その状態での考えや発想もまた、良きアイディア、想いを描くことだろう。