今日、こんなニュースを聞いた。
騒音が酷いため、その人を切りつけた。
これを聞いて、騒音を出す奴が悪い。
または、
騒音くらいで切りつける奴はひどい。
そう思う人は少ないと思う。
切りつけるという事は、騒音を出した人と話をする際、
ナイフなのか包丁なのか知らないが、それを持っていたということになり。
人と話をする時にそんなものを持っていくことを考えたら一般的ではなく。
思考を止め、心を静かにしこの一件を観るならば、
どちらも同じ程に愚かなる者ではないか、と気づくだろう。
それは、スピリチュアル的に言うならば、
同じ波動の者であり、同じ世界に住まう者であり、同類の世界と人の引き付け、引きつけ合いであり。
この両者が、もし異なる世界の者であったなら、
片方は騒音に反応しなかっただろうし、
片方は騒音をかけたことを素直に謝罪し、事なき事となっであろう。
この法を参考にするならば、
今、自分がどんなことに反応し、相手はどのような人か、どんな想像ができるか(自分がどんな印象をもつか)
を冷静、客観的に観れば、
今、自分はどんな人間か、どんな心の者か、どんな属性の者か知ることができよう。
因みに、善い人と付き合うことが良い世界を築くのには違いないが、
もっと言えば、善い人と付き合う事だけがその手段かというとそうではない。
例えば、あなたにそのような人からのコンタクトや何か起こったが何かの都合で絡めなかったという
事案が起きたら、それはそれであなたの属性の証明になろう。
そのような人と出会うことはその機会ではなかったが、そのような人とのアクションがあったという事実。
何もないという基準から、観ることができるなら、
あなたの世界に何が起こったのかを知ることができる。
関係のない人とは、それすら起こらない。
もし、あなたが今、あなたの世界に起こるものを気に入らず、変えたいと望むなら、
瞑想や座禅、自分自身の唯一の証拠(在る)という感覚に意識を向けるが好かろう。
それはつまり、何もしない(心の活動)、心を静かにする、あなたが止まる、であるが、
それだけで十分あなたと環境は変わろう。
私達の本質は存在するだけで幸せ、ポジティブ、癒し、安らぎであり、実のところそれを得るに活動の必要はなく。
何もしないという誰にでもできる選択でゼロポイントの恩恵、賜物を手にできる。
聖書か何かは忘れたが、
神様は誰にでも手を差し伸べるや、
誰にでも幸せになる力を授けたや、
あなたは神であるという表現と意味の指し示すそれは、
誰にでも可能、使えない者は世界に誰一人として存在しない、ゼロポイントによる存在の力である。