もう3月ですね。
月日の経つのが早くてびっくりです。
そして、今日からポストには一般紙のみ。
聖教新聞をやっとやめる事ができました。
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「ま〜た同じこと書いてる」(`言´)イライラ…と、朝から心の中がかき乱されるので早くやめたかったのですが、色々考えると簡単にはやめることができませんでした。
子供の頃から身近にあった新聞です。
学会と一体化したような家庭環境でしたので、聖教新聞は粗末に扱ってはいけないとも教わってきました。
おかげで、新聞をやめるということは【脱会】に等しい感覚が私の中に育ってしまっていたようです。
小さい頃から「脱会」の恐ろしさについても聞かされていましたので、その言葉を口にするのも強い抵抗感がありました。
心に染み付いた不安や恐怖心。そして、学会のレールを踏み外そうものなら、直ちに正されてしまうので、その意に沿った良い子であるよう、常に学会幹部や親の目・感情を意識して生きてきた事が足枷となっていました。
あやつり人形時代が長すぎたことで、今でも自分の判断に自信が持てず、素直な感情には蓋をしようとしてしまいます。自分の“好き”や“嫌い”を優先することは、自己中心的でわがまま、悪い事のように感じてしまうのですね
そんなヘドロを一つ一つ剥がし、勇気を出して捨てていかなければ、私は前には進めませんでした。
学会で教えられたこととは真逆の、納得できる考え方にどんどん触れて上書きし続けながら、それでいい。大丈夫。あなたは何も間違えていないし、悪くもないよ。
自分の考えに自信をもって進みなさい!と萎縮した心に一つ一つGOサインを出して、やっとここまで来たという感じです。
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【断ってもやってくる学会幹部】
「次、婦人部が訪問してきたら絶対に新聞をやめる」と心密かに決めていました。
その間、分からなくなっていた販売店を探しました。
なかなかきっかけも掴めずにいたところ、女性部幹部が“勝手に玄関に入っている”という衝撃事件(笑)のおかげで、思い切って解約手続きに踏み切る事ができました。
新聞をやめた情報は、すぐ組織に漏れるでしょうから、再購読させようとしてくるかもしれません。
でも、他人の家庭生活の責任なんて取る気も取れるはずもない学会員に、ごちゃごちゃと口出しされる筋合いはありませんからね。
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【私たちが真心で納めたお金】
財務の他、書籍、民音、他部数購読・贈呈までしていた、広告だらけの読まない新聞に支払ったお金が、一体何に使われているのかも分からない、「広宣流布のため」といえば何でも通用してしまうだなんて、納得がいきません。
昔、池田さんが海外の人と対話をしている場面や、そのために乗ったであろう飛行機から奥さんと一緒に降りてくるビデオ、何度も見せられましたよね。
「世界平和のためにはそういうお金が必要になるから、会員が真心の財務をして、先生に思う存分、世界広布に駆け巡って頂くんだよ」と、若い頃に何度も聞かされました。
池田さんが表に出られなくなった今、後継である今の会長さまは、いつそのような活動をしてるのでしょうか?
新聞紙上で、散々友好アピールをしてきた隣国が、今や世界平和を揺るがし兼ねない行動をとっている。現に、悲惨な侵攻まで起こしている。
なのに、それを止めるよう中国やロシアへなぜ「対話」をしに行かないのですか?
不可能を可能にする信心なんでしょ?
私たちには“対話”“対話”と言ってるじゃないですか。
新聞でも、毎日毎日“対話”と書いているじゃないですか。
あれは嘘だったとか言わないで下さいね
世界平和のための財務は沢山あるのですし、会長自ら海外に飛び、諸天善神に護ってもらうための“絶対に叶う題目”を沢山あげてw、会員のお手本となるべく「勇気の対話」で実証の姿を示して下さい。
その対話が実った暁には、日本のみならず、世界中から創価学会は素晴らしいと称賛されることは間違いないでしょう
でもね、都合が悪くなると逸らしてしまうのは得意中の得意。
チヤホヤしてくれる行きやすいところにしか行かないで、動いてますアピールされても、何だかなって感じです。
創価学会にとっては、世界の平和や人の命よりも選挙が大事!ですものね。
コロナが蔓延していようが、緊急事態宣言が出ていようが関係なく、激戦区にやって来ては、リーダーを集めて会合を開かせ F取りを煽る。
これが、会長の“世界広布の闘い”ですか?
言ってることは立派でも、やってる事がこれでは小さ過ぎませんか?
学会活動といえば、選挙と並んで新聞啓蒙が重要ですが、会長さんは、どのくらいの人に直接頭を下げて頼んで歩いているのでしょうか。そういった活動報告を聞いたことがありません。
末端の役職のある活動家は
ただ会合に参加して、
ただ先生の指導を読み
勤行・唱題しているだけでは
ダメだと言われるのですよ。
会長は結果を出していないのに、
なぜ私たち末端の役職者だけは
自分や家族を犠牲にしてまで
寸暇を惜しんで走り回り
年がら年中結果を出すよう煽られ続けなければいけないのですか?
会長と会員では
福運の差があるとか
境涯が違うとか
そんな都合の良いことを言う会員も人もいそうですが、それではあまりにも人をバカにしすぎでしょう。
学会の役職は責任職だから、偉いのでもなんでもない。会員も幹部も同じ。
違いますか?私はそう教わりましたよ
会長や首脳陣は会合で忙しいから
結果を出す戦いをしなくて良い。
少しの財務と少しの題目で良い。
壇上で、お決まりの学会用語を並べて話をするだけで良いのだとしたら、今まで私達に言ってきたことはなんなのでしょう。
そんなお気楽な上層部達のお給料になっていたのかと思うと、ホント不愉快でした。
でも、これで無駄な出費がなくなります。
高給取りの会長さまにとっては『へ』とも思わない額でしょうが、昨今の物価高で家計のやりくりも大変ですから、年間約2万円が浮くのは大きいです。ゴミも減ります。
何十年とあったものが無くなるのは少しだけ寂しい気がしたのと、心は脱会したも同然なので、若干母の顔がうかびましたが…
私の人生ですから、私らしく生きさせて頂きます。
これでやっと心を乱されずに済みます。
さようなら。聖教新聞そして創価学会
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【覚醒】
数年前から起こっていた、組織内での様々なきっかけがなければ、私の覚醒は有り得ませんでした。
半覚醒状態の頃、コロナという謎の疫病が世界中に蔓延し、創価学会も会合を中止せざるを得なくなるという、前代未聞の事態になったことは、不謹慎ではありますが、私にとっては、本心を見つめ直す時間を確保するのに、あまりにもベストなタイミングでした。
また、昨年には、宗教二世問題が明るみになった事で、二世・三世が苦しんでいる事が少しだけ世間に広がりましたよね。
風向きが一気に「私を生きなさい」という方向へと変わったように感じました。
お陰で、“NO”が言いやすくなり、親や学会組織に握られていた私の人生を、やっとこの手に取り戻す事ができた気がします
でも、二世・三世の中には、私のように、非活になることすらも、一筋縄ではない人もいることを知って頂きたいです
しつこい訪問・連絡だけでなく、個人情報の取り扱いがずさんな組織ですから、話は他地域の人(有役職者)にまで、あっという間伝わっていきます。
二・三世のバリ活が非活になると、裏切り者や仏敵という訳の分からない扱いにでもなるのでしょうか。
私が街中で遭遇した婦人部達の不愉快な言動は、とても印象の悪いものでしたし、こういった態度をとられる方が1人や2人ではなかったことにとても驚いています。
創価学会が、いかに上っ面の薄っぺらい人間関係だったのかを思い知りました。
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それから、今はSNSの時代でもあり、こうしてブログを書くからには、ある程度の覚悟はしていましたが、わざわざアンチブログを覗きにいらっしゃる学会員さんがいます。
中には、私よりも歳上であろうお方が、挨拶もなく重箱の隅をつつくかのようなレベルの低い批判メッセージを送り付けてきたこともありましたし、変な幹部のせいで創価学会から離れることになったのは気の毒だというようなことを言われている方もいました。
私の育った家庭環境的に、幹部と接する事の方が多かったので、このブログもそういう内容が多いです。
過去記事を読んで頂ければわかると思いますが、異常な環境で生きなければならなかったことに対して同情して下さったのであればありがたいのですが、創価学会を離れることになったのが気の毒とおっしゃるのでしたら、「それは違います」と申し上げたいです。
日本には、信教の自由が保証されています。それは、信じる自由だけでなく、信じない自由もあるということ。こういう方々は、分かっていらっしゃるのかな?と疑問に思います
それに、このような内容のブログは、その人のほんの一部でしかありません。
どんな家族構成、どんな家庭環境、どんな思考の親の元で、どんな教育やしつけをされて育ち、どのように宗教組織への縛り付けをされ、どのような立ち位置で宗教活動を強制され、どのような指導を受け、どのように矛盾した幹部達の言動を心の中に落とし込む努力をし、どのような人間でいなければならなかったのか。
自分を生きさせて貰えないその何十年という苦しみの中を生きてきた人間の心の傷はどれほどのものか…。
それを分かりもせずに、まるで、ご自分を否定されたと勘違いされたかのように、批判のメッセージやコメントを送りつけてきたり、自分のブログに何を書こうと自由ではありますが、他人のブログを覗いては、頭ごなしに否定した記事を書かれるのは、ブロガーとしてのマナー違反だと思います。
そのような方を拝見すると、リアルでの私生活が上手くいっていないのかな?と想像してしまいます。
学会活動や勤行をいくらしても、心の溝すら埋められていないから、顔の見えないSNSでアンチを探しすような行動をしてしまい、そこでストレスを発散してるのかな?と見えてます。学会が好きなら、それが会に泥を塗る行為であることを知った方が良いと思う。
私がバリ活のままなら、アンチを探して潰すような記事ではなく、そんな方向を見るのではなくて、誰が読んでも希望の湧くような、元気が出るような記事を書こうとしたと思う。その方が、創価学会って素晴らしいのね!となるんじゃないでしょうか。
でもね、そういう方は、気が付かないまま同じことを繰り返して生きて行かれるのでしょう。どう生きるかは自由ですものね。
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私は、創価学会だけは、他宗と比べ物にならないくらい慈悲深く、真っ当なことをしている宗教だと思っていました。
だけど、組織を離れて年数が経つにつれて見えてきたのは、宗教はどこも一緒。特に新興宗教は、創価も他宗も組織運営だけでなく、言ってることもやってることもほとんど一緒で驚きました。
創価学会だけは特別だと思ってたのにーwしっかり騙されちゃってたなぁw
どちらにしても、選挙の集票活動や新聞啓蒙なんてやりたくもなかったですし、他を認められず、幸福の名のもとに人をコントロールしたがるしつこい宗教はもう懲り懲りです。
会社でも、サークルでも、辞めたあとに、こういうことをする人がうじゃうじゃいる団体ってありますか?
私は創価学会以外に見たことがありません。
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【最後に】
今の私は、『地に足をつけて生きている』『幸せだな』と心から感じられることが増えており、創価学会員に遭遇しない限り心穏やかな毎日。お陰様で心身も生活もグンと上向きになっています。
前にもどこかで書きましたが、人生は波のように、良いことも悪いことも必ず全ての人に、平等に繰り返しやってきます。
学会にどっぷり浸かっていた時は、信仰体験を積みたい一心なのか、無闇矢鱈と不安や悪い方へ意識を向けたり、宿業なんて良くない言葉に縛られまくっていた気がします。
そんなことに意識を向けているせいか、不必要な不幸まで招き寄せてしまっているようでした。
まだ起こってもいない先々の不安に目を向けるより、目の前の『今』に意識を向けて「大丈夫。なんとかなるさ」と思っていると、誰かが望む最善ではなく、自分が望む最高の“最善”へ、自然と進むようになっている。
だから、嫌という程聞かされてきた、信仰云々ということは、全く関係なかったと私は実感しています。
でも、学会活動や題目でモチベーションがあがるという人もいらっしゃるでしょう。創価学会と共に!先生と共に!広宣流布のためにこの一生を捧げて闘うことが我が使命!そう心から思って活動している人もいらっしゃるでしょう。
それは否定しません。お好きなだけ頑張られると良いと思っています。
“私にはこの信仰が合わなかった”というだけのお話ですから。
人の生き方は十人十色なのです。
こういう事は、周りがとやかく言うことではないと私は考えています。
どちらにしても大事なのは
自分の頭で考え
自分の心に問うて
最後は自分の選択した道を信じて進んでいくこと。そうすれば、宗教なんかに頼らなくても、ちゃんと道が開いてなんとかなっていくものですね。
私は欠けた部分がとても多いので、再構築し続けていかなければなりませんが、少しでも悔いのないものにしていけるよう、人生楽しんでいきます。
話がどんどん脱線して長くなりました。
残すは本当の脱会のみ…
さすがにこれは、私たち家族の幸せを心から願ってくれている高齢の母を思うと、心を壊してしまう可能性もありますので、今は出来ません。
だけどきっとまた、何かの流れが来るでしょう。
今はジタバタ無理して動かず、日々の小さな幸せに感謝しながら、静かにその時を待とうと思います。
さて、これでこのブログは本当におしまい
(…のつもりです。学会幹部、しつこいのでねw その時は書きにきます)