私 :     お父さんとお母さんの間に何があったのか知ってるの?


あきさん:  聞くこともしなかった。重大な事実が出てきそうで恐ろしかった。

        

        私の存在そのものに関わることに思えてならなかった。8歳の子


        供の直感のようなもの・・父と母がどんな問題を抱えていたのか


        考えはしなかった。父は酒好きでよく飲んでいた。家の中の納戸


        と呼んでいる部屋で上半身裸であぐらの父の頭の上から、母が


        一升瓶の酒をドブドブとかけている。その背中の妙に艶めき濡れ


        た輝き・・・「そんなに飲みたいなら、ほら!」と、怒りにまかせて


        次から次から酒を浴びせる母、板張りの床に溢れ流れる透明の


        液体・・・酔いちくれた父は体の自由がきかないのか無抵抗で、


        されるがまま、恍惚状態にさえ見える。 「お母さんやめて」泣き


       だす妹・・・それらを映画のワンシーンを見るように、私はただ静観


       していた。後日母は知人に「あきは、冷たい。どんなときでも、白け


       た表情で、やり過ごす」という意味のことを言っていたという。


        なぜか声も涙も出なかった、恐怖と不気味さと悲しみで。


        酒の飲みすぎが原因かどうかはわからないけど、父は体が強い


       方ではなく、仕事をバリバリして稼ぐタイプの人ではなかった。生

    

       力には乏しかったと思う。そういう父に将来の希望を失い、不安


       が生み出す絶望が、母を追いつめたのかもしれない。


       

あきさん: 「どこで何をしてたんですか、こんなに遅くまで」担任の先生は優


       しさのかけらも感じられないような棘のある調子で言った。それを

       

       教頭先生が制して、「古田あきさん、学校の帰りに道草して遅くな

       

       ったら、お家の人が心配しますよ。もう、したらだめですよ」と諭す


       ように話しかけた。母は担任の女の先生に負けないくらいの険し


       い顔で私をみてた。


     その夜の長かったこと・・・・


     *「それで、あきの名字は何?」と母


       「た、谷・・」


       「学校ではなんて呼ばれてるの?」


       「ふるたさん・・・」


       「あきの名字はもう、谷に変わってるでしょ。先生にちゃんと話して


       みんなに知らせてもらいなさい、いいね」


       あの先生と話すのは苦手だった。熱心に生徒の話に耳を傾けるタイ


       プの先生ではない。


        それでも、毎日毎日母は、催促するし、其の度に適当に誤魔化


       す種もつきて、意を決して、ある日「先生、わたし、名字が


       谷に変わりました」と伝えた。先生は「そうですか」と言った。それ

      

       だけだった。その日も次の日も、学級のみんなには知らせてくれ


       ず、相変わらず私は、古田さんと呼ばれていた。先生からも。


       母には「先生が、みんなに言うのは3年生になってからにしましょ

  

       うって」とうそをついた。


私:     その辺、よくわからない。そんなこと普通は親から先生に話すで


        しょ。離婚したのはお母さんなんだから・・・


あきさん: ・・・そこんとこが普通じゃない。ただ、その頃から母に対しては、


        おぼろげに、負い目を感じてた


私 :    なんで?


あきさん:  ハッキリとは説明ができないけど、・普通ではない何かがあると、


        あやふやな見えない記憶見たいなものかな・


私 :     何・・・?


あきさん:  難しい。心の深淵のとこ。
























私 :   じゃ、それからは古田の家に戻ることはもうなかっ

      たの?弟さんが施設に預けられた理由はわかっ

      たから・・


あきさん:弟は孤児院じゃなくて乳児院だって・・・あのとき、

      古田爺ちゃん、言い間違えたのか、本当にそう

      思ってたのかわからんけど


私 :   古田爺ちゃん、不憫な思いから、そう思い込んで

      しまったのかもね

      それで、そのこと、お母さんには?


あきさん:言ってない。知ってるならそれでいいし、知らない

      のなら、知った時の母の気持ちを思うと、どうにも

      切なかった、こども心に・・


私 :   え、小学校の何年生の時?

     

あきさん:私2年生の時


私 :   小2で、そんなこと思いやれたわけだ


あきさん:子供だからって侮っちゃダメ。子供は大人が考え

      る以上に、いろんなこと思って、そして我慢してい

      る。いろんな大人に気を使って、毎日一生懸命生

      きてるもんだ。貴方だってそうだったはず


私 :   うん・・・で、妹さんは?毎日どうしてたの?まだ小

      さかったでしょ


あきさん:近所の親戚でかわるがわる面倒見たみたい。み

      んな温かい人たちだった


私 :   よかった


あきさん:古田婆ちゃんがきてから何日か経った土曜日に

      もう一回元の家の近くまで、行った。学校の帰り

      に。その日雑貨屋の伯父さん家にいた妹の処に

      行った。そこんちのお姉ちゃんが特別優しい人で

      こっそり店の金庫からお金を盗んで私にくれた。

      楽しくて、懐かしくて時間も忘れて過ごした。店の

      大人達は夕方のかきいれどきで、私に帰るように

      気配る余裕はなかったみたいで・・

      優しい治代姉ちゃんが帰りに手を握って、涙ぐん

      で・・つらかった

       とっぷり日が暮れてから家に帰り着いた。


私 :   お母さんはカンカン?


あきさん:学校の担任の女の先生と教頭先生が玄関のとこ

      に立ってた。


あきさん; 翌日曜日は、朝から雨がふってた。母は室内でずっ


       と編み物をしていてちょっとの隙もなかった。


        妙にリアルな今朝がたの夢を思い出しながら、窓


       の外に目をやると、古田の婆ちゃんが傘のなかか

      

       らこちらを見上げていた。古田婆ちゃんは、近所の


       女の人を集めて和裁を教えて、古田爺ちゃんと二


       人で暮らしている。「あきと万希さんに会いに来た」


       と言いながら、急な階段を這うようにして上がって来


       た。穏やかな性格のこの婆ちゃんとは、母も仲が良


       かった。母はにっこり笑って座布団やお茶をすすめ


       ていた。これで今日は一日平穏に一日が過ごせ


       る。


       ただ、お父さんに会いに行けない。母の目を盗めな


       い。


       古田婆ちゃんは、着物の話や世間話をし終わると


       私の方を見て憐れむように、「あきが不憫だ」と言っ


       て、手招きをした。私を横に座らせると「あんたに何


       も罪はない」と頭をなでた。私は「不憫なんは、弟と


       妹の方だ」 と思った。


       古田婆ちゃんは、帰り際に、階段の一番上に、膝を


       直角にする格好で「そうそう、操はここの病気でまた


       入院 した」と自分の胸を押さえた。そして、帰って


       行った。

   

       操は、お父さんの名前だ。

その日は、いつものようには従姉たちの茶の間にテレビも見に


行かず、早めに就寝したあきさんは、夢を見ました。

 

 あきさんのお母さんの実家は名字を「谷」といいます。その母


方の実家(つまり、お祖母ちゃんの)は堀内。


・堀内家で、大人達が、何やら会合を開いている。


・まだ赤ん坊の妹とお母さんとあきさんが、別室にいる。


そして暫くの後、


夕闇せまる堀内家の取付け道路の坂道の真ん中に一人立って


るあきさん、坂の下には妹を背負ったお母さん、坂の上の邸


の方には堀内家の親戚の人達、上の方からは口々に「あき、


って行け」という声。無言で見上げるお母さん・・やがて、「あ


き、おいで」というしぐさに、逡巡していたあきさんは、すがるよう


におさんのもとへ飛んで行く。お母さんの佇まいのか弱さに


抹の不安を抱きながら・・・・


 お母さんの背のねんねこ半纏のなかで、妹が何やら御機嫌


喃語を発し続けていたそうです。


 その後あきさんは一人になると、この夢の中の光景が、幾度


なく脳裏に現れるといいます。             ・・・つづく



私 :    その日、帰って怒られた?


あきさん:  ううん、小学生が、学校から帰る時刻はとっくに過


        ぎてて、もう辺りは暗くなりかけてたんだけど・・恐


        る恐る階段を上がってみたら母はいなかった。ほ


        っとした。暗くなっていく部屋の灯りも点けず、弟


        のことを考えた。肉付き良く色白でよく笑い、可愛

        

        かった。赤ん坊大会で入賞したね。・・そうだ明日


        あと一回だけ、古田のお父さん家へ行ってみよう


        日曜日だけど、なんとか、母の目を盗んで、お父


        さんに会おう。古田爺ちゃんに聞けなかったことを


        聞いてみよう。と心に決めた。


私 :     それで、お母さん帰って来てから、何ともなかった


        の?


あきさん:  うん。その日母は、すっかり暗くなってしまってから


       帰って来た。 いつになく、上機嫌だった。手土産の


       助六寿司を食べた。おいしかった。



あきさん: 母の嫁ぎ先は古田という名字だった。ある日下校時

      

       に校門のところで、古田の爺ちゃん、お父さんのお

      

       父 さんね。にばったり会って、「おー、あき、元気に

      

       しとったか?」 「ちょうどいいところで会った。これ

       

       か爺ちゃんちゃんと一緒に来なさい。家に帰って

       

       いたら遅くなるから、このまま行こう。」って・・私は、


       ランドセルを背負ったまま、古田爺ちゃんが、ぜひと


       も、私を連れて行きたいという場所へ一緒に行くこと


       にした。帰ったらまた叱られると思いながらも・・優し


       い爺ちゃんが大好きだった。


        バスを一回乗り換えて着いたところは、何々院と

       

       書いてある施設らしい建物だった。


        爺ちゃんは、帰り道 「孤児院」 だと言った。私


       は、そんなはずない、だって、弟は 「孤児」 では


       ないもの・・・信じられなかった。


        ベビーベッドに寝かされて、弟は職員の人達に

 

      「古田ちゃん」 と名字で呼ばれていた。その声音や


      接する態度は丁寧で、大切にされているなと、こど


      もなりに、推察した。


       弟が何故、こんな処に居るのかを尋ねる勇気が


      私にはなかった。「あきは、家に帰ったら、この事を


      お母さんに話すか?」と爺ちゃんは聞いた。 私は、


      「わからん」と一言答えるだけで、泣きだしそうだっ


      た。お父さん、どうしちゃったのだろう・・?


      

     


       

 このようにして、あきさんとお母さんの母子家庭は誕生したわ


けです。古く大きな農家の二階の二間で、二人は暮らしの不安


を抱えながら、へんてこな間借生活を送っていました。お母さん


のガンバリと親戚の伯父さん達の支援もあり、リンゴ箱だった


きさんの勉強机も、椅子付きのスチール製へと変わり、日々


穏にすぎていました。当主の妹ゆえに 「無料」 の間借暮ら


しは、二階の南向きの一部屋に小さなプロパンガスボンベを置


き、板の間に台もなしに直置きのコンロで煮炊きをしていたそう


ですから、さぞかし大変だったことでしょう。消防法にも触れるで


しょうが、そこは、あきさんの伯父さんの顔で、不問だったようで


す。


 日が経つにつれ、お父さんや妹や弟に逢いたくなったあきさ


はある日、内緒で一人こっそり、元の家へと出向いて行きました。


 お父さんと弟は不在で、妹が一人、人形と遊んでいて、あきさ


を見つけると、はにかんだ笑顔で家の中へと迎えてくれました。


 二人で人形遊びをした、その時の妹の笑顔は、・・天使のよう


でした・・と。


 一人で元の家に帰ったことがしれることになり、こっぴどく叱ら


れて、それからはもう戻ることはなかったといいます。ある日の


回を除いては・・・・・・




あきさん: この部屋は、従姉たちの勉強部屋だった。


       ある騒動の後、母と私の住まいとなった。


私 :    騒動って?


あきさん: 冬の寒い日、眠りについていた私を母が、何やら叫

       びながらたたき起こして、何枚も何枚も服を次々着

       せて・・


       「あき、この家を出て行くよ!橋の下ででも生きて行

       けるから!」


       伯父夫婦を交互に睨みながらすごい形相で・・


       母の迫力におののいて、伯母が遂に

       「そんな、橋の下に住むなんて・・・ここにいればいい

       よ。娘たちの部屋をあけるから・・・」って


私 :    あきさんのお母さん、なかなかの策士


あきさん: ディス・・・


私 :    え?


あきさん: ううん、何でもない・・

あきさん: 夜中に目を覚ますと、部屋に母はいなく、隣でスヤスヤ

       と寝息を立てていた弟が、お腹が空いたのか、ぐず

       ぐず言いだして、終いには泣きだした。

       

       どうしていいかわからず、弟を抱っこして、初めのう

       ちは母親顔してあやしてたけど、泣き止まない弟を

       見てたら、どうしようもなく不安になって、

      

       窓から見える青白い積もった雪に、あの日の妹の

       顔が浮かんできて・・

       堪切れずに、弟を抱っこしたまま一緒に大声出し

       ていた。


        私が泣き出すと、びっくりした弟は泣き止ん

       でいつまでも私一人だけ泣いていた・・

       

        そのうち、従姉の雪ねえちゃんが心配して部屋に

       やって来ると、この家の大人達、母、伯父、伯母も

       何処からか帰って来た。・・父もいた。

  

       弟はおっぱいをお腹いっぱい飲むとまた寝てしま

       った。

         

        私は父の顔を見てほっとしながらも、わけのわか

       らない恐怖でどきどきしてた・・


        父は寝ている弟を宝もののように大事そうに抱い

       て、帰って行った。


        母の顔は般若の面のようで恐ろしくて言葉も出な

       かった。


       伯父も伯母も雪ねえちゃんもみんな黙った

       まんまだった。