月蝕歌劇団の代表・高取英さんが亡くなられました(享年66歳)。
(月蝕歌劇団公式ブログよりリブログ)
昨日たまたまAmebaアプリを開いてブログ回りをしていたら・・・突然の訃報にただただびっくりしています。
高取さんの訃報を聞いて私の頭の中に真っ先に思い浮かんだのが流山児さんのこと。
流山児さんと高取さんは長年演劇界で『戦友』のように苦楽を共にしてこられたお2人。
私が流山児★事務所の公演を観に行くとかなりの確率で高取さんをお見かけして、終演後にお二人で和やかにお話されているのを遠巻きに眺めながら「アングラ演劇界の二大巨頭だー( ☉_☉) パチクリ。」と羨望の眼差しを送っていたものでした(←小心者ゆえお声はかけられませんでしたが💦)。
もちろん私は高取さんとは面識も何もなかったんですが、流山児さん経由寺山演劇ファンということてTwitterで相互フォローしていただいてたりしていたこともあり・・・
スケジュールがなかなか合わず観る機会がなかった月蝕歌劇団、高取さんがお元気なうちに1度拝見しておけばよかったなぁと後悔の念が増すばかり。
新聞の訃報記事とかを見てもなんかまだ実感がわきません。
流山児さんはFacebookで高取さんへの追悼文を書かれています。
長文ですが・・・流山児さんから見た高取さんの人となりを端的に言い当てた名文だと思うので、以下転記してご紹介させていただきます。
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高取英死去??の報が伝えられたのは27日の午前中だった。
28日のお昼過ぎに「劇団の公式発表は29日午後6時、葬儀は家族葬で行う」との連絡が入る。「ホントだったんですね、家族葬ですか、30日に帰ろうと思ったのですが、今度じっくり会いに行きます。」「最後は、家族と一緒に過ごすのが一番ですね」とメールした。
29日午後4時過ぎ、月蝕歌劇団の劇団員から「今、ちょうど高取さんはニコチンとかタールとかを撒き散らしながらお空に行かれたと思います」と、連絡が入る。わたしも台北の空に向けてニコチンとタールを撒き散らした。涙が止まらなかった。なんで!高取、死ぬんだよ、この馬鹿野郎!
29日午後6時「26日、高取英氏、虚血性心疾患のため世田谷区の自宅で亡くなった。」とニュースが伝えた。
「月蝕歌劇団代表 高取英が平成30年11月26日正午に永眠致しました。 葬儀は本人の希望により親近者のみにて相営まれました。 ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げます。」 月蝕歌劇団
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高取英と会ったのは、1978年だったと思う。寺山修司の個人スタッフで漫画エロジェニカの若き編集長だった。私より4歳年下。大坂市大新聞会で編集もやっていたし、白夜劇場という劇団を主宰し、寺山さんのスタッフなのになぜか唐十郎の芝居が好きだという、一度会って、すぐ友人になった。
当時、高取は、寺山さんが住んでいた三田の人力飛行機舎に居候していた。ま、書生さんみたいなものだろう。当時の天井桟敷のメンバーは寺山節で喋るので、高取の事を「大阪弁を喋る寺山修司」だなと想った。頭脳明晰、博学で、詩人で、ギャンブラーで、喧嘩好き、でもって大の少女と歴史好き、会うなり、矢切止夫史観と本間千代子についていきなり喋り出したのには驚かされた。そうこうするうちに弟というより、敬愛する私の師とよぶべき存在になり、その後40年間、文字通り、長―い友となった。
1978年当時、ピンク映画や演劇人のたまり場であった新宿の「小茶」で、高取の編集する三流劇画誌「エロジェニカ」の連載を引き受ける話の時、芝居の話やらで盛り上がり、同席していた高取の先輩と、近くの金王神社で「決闘」という名の喧嘩をやった、立会人は高取であった。
その後、80年代三流劇画論争で下北沢の路上での某I氏との「決闘」も高取は立会人であった。鈴木忠志氏らの演劇人会議設立会議での私の「喧嘩上等の出入り」の時も、高取は立会人であった。他にもいろんな喧嘩の現場でかれは、立会人で、私の最後の「引き際」を考えてくれた最大の友人である。
居候していた三田の人力飛行機舎や渋谷の清風荘にも一緒に行った。1979年「演劇団」解散公演『カルメンⅡ』(山﨑哲:作)を高田馬場群六舎スタジオで上演した時、高取が寺山さんを呼んでくれて、「演劇団解散の音頭」を寺山さんが取ってくれた。
1980年天井桟敷がニューヨークで『奴婢訓』を上演することになったのでそれに合わせて共通の友人であった映画監督の高橋伴明と3人でアメリカツアーとしゃれ込んだ。ロス、サンフランシスコ、ニューヨークの1か月の旅は楽しかった。この時、高取は東京での劇作家デビュー作『月蝕歌劇団』を書くために昼はホテルにこもっていたが、夜になると良からぬところへ?必ず出かけていた。そのタフぶりに驚かされたのも事実である。
1980年東京での劇作家デビュー『月蝕歌劇団』は舟木一夫の自殺未遂事件を題材にした高取ワールドの出発点であった。その後、『天狼騎士団』『帝国月光写真館』『冥王星の使者』『黄金箱』といった作品をわたしと高取英は協働で生み出した。
1980年~90年代、わたしは北村想、高取英、そして寺山修司の伴走者:岸田理生らと共に駆け抜けたのである。2005年私の代表作『夢の肉弾三勇士』の上演台本を書いてくれて天野天街(少年王者舘)というもう一方の天才と引き合わせられたのが私の僥倖でもある。高取、北村想、アマノの「3人の天才」と山﨑哲は私のかけがえのない友である。この4人はわたしと違ってニンゲンのスケールが半端ないヤツラである。
わたしの唯一の映画作品『血風ロック』(1985年)のシナリオは、わたしが勝手に高取が住んでいた下北沢のアパートに正月の3日間、映画監督の石井聡互氏を加えて3人で、あーでもない、こーでもないと呑みながら、喧々諤々しながら「原案」を書き上げ、本当に、ご家族にはご迷惑をかけたものである。結局、「原案」しかできなかったので、敬愛するシナリオライターの内田栄一さんに高取と一緒にお願いすることになった。
前後するが、1983年5月『新・邪宗門』という「遺作」を「演劇団」に残して寺山さんは彼岸へと逝った。この作品も寺山さんが三田で倒れて阿佐ヶ谷の河北病院に入院した後、岸田理生さんと高取に助けられて、なんとか本多劇場で上演することができた。
1986年、高取英は自ら劇団主宰者となり月蝕歌劇団を旗揚げした、その後32年間、弛むことなく独自の劇世界を構築し疾走を続けてきた。
月蝕がスロベニア国際演劇祭に行くというので2013年『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』で、33年ぶりに一緒に旅をした。スロベニアのエヴァルド・フリザール:作だというのに換骨脱胎、ソフトSMの倒錯あちゃらか劇の体裁、私は植木等の歌を歌いチャンバラをやった。ホントにふざけ三昧の漢(おとこ)である。飛行機の時間を午前と午後を間違えて、パリ行きが大変なことになったが、今思えば愉しい思い出である。「一寸、イタリアへ行ってきまーす」と、月蝕の女子たちとタクシーで出かけてゆく大らかさ。
ちなみに、月蝕の本番中、高取はいつもビデオカメラを回しながら懐中電灯でピンフォーローをやる。内田栄一さんもよくやっていたがあれは彼の「芝居への愛」だとわたしは想っている。で、その日に撮ったビデオを即、予約販売するところが大阪商人である。
月蝕歌劇団は一ノ瀬めぐみや倉敷あみといったヒロインを輩出し、現在は11代目である。『聖ミカエラ学園漂流記』にはじまるセーラー服の少女たちの叛乱革命劇は高取が名付けた「暗黒の宝塚」がぴったりであった。驚くべきは30年間「サブカルの大御所」でありながら、一貫してアングラ劇団を身銭を切ってやり続けたその持続力と精神力である。海外公演以外、一切の助成金もなしに年間4~5本コンスタントに小劇場で公演を打ち続けるその体力は凄い。「大阪のタコ焼き屋商売」と、うそぶき、軽やかに高取史劇を上演し続けた。
『ドグラマグラ』『花と蛇』『家畜人ヤプー』『愛と誠』『標的者』『ねじ式・紅い花』といった漫画も思想も幻想文学もSMも彼にかかると見事な歴史エンターテインメントとなる。この悪食の強靭さはどこから来たのだろう。
それに高取はいい先生だった。教え子たちをみていると彼の優しさがわかる。そして、先生の感覚で最後まで劇団員をみていた。多くの若い才能を生み出した。教え子たちがこれからも高取の意思を引き継いでくれると確信している。
それにしても早すぎる。演劇界のみならず、わたしが最も信頼する友であり師である高取英が、突然、風のようにアッチへ逝ってしまった。これこそ、理不尽の魔である。
最近は、帽子に凝っていた、でも、これが似合うから性質が悪い。会うたびに、わたしが、太りすぎだからとにかく「歩け!」といっても聞かない。心臓に悪いからタバコはやめろといってもやめなかった。ま、わたしもそうだが。心臓の手術のあとステント2本入れたから大丈夫と豪語していたっけ。
大昔、高取と寺山さんと3人で渋谷の街を歩いたことがある、寺山さんが一番早かった。喫茶店でわたしは珈琲を注文したらフルーツパフェを二人が注文した。寺山さんはかつ丼が好きだったが、高取はそれ以上にかつ丼が好きだった。
2013年『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』の稽古の時、生まれて初めて、高取に「演出」された。役者達は稽古しているのに高取は菓子パンを食って下を向いて何かしている。ダメ出しなんかまるでしない。何書いているのかな?と思ったら、予想通り「オバQ」の絵を書いていた。奴はよく台本とか原稿とか色んな所にオバQを書いた。本当に憎めないかわいいやつなのである。高取は台北でも講演をやってるので今日、君の事話したら「知ってますよ、面白い人ですよね」と言ってたぞ。日本に帰って高取がいない!という現実を「想像するだけで」俺は淋しい。
一気に、随分と長くとりとめのないことを書いてしまった。台北もめっきり夜は寒くなったよ。じゃあな、またどこかで、Q太郎の絵、書いてくれよ!
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確かこれ、大正大学の学生さんが製作した豊島区テラヤマプロジェクト『無頼漢(ならずもの)』のドキュメンタリーの試写会&トークショーの1コマだったと思う。
私も見に行ったけど、2人が自由すぎて爆笑の連続だったのを今でもはっきり覚えてる。
この2ショットももう見れないんだなぁ・・・。

