追憶 ~ジュリアナ東京が1日限定復活~ | ICARUS GARAGE

ICARUS GARAGE

ブログ潰すYahooは糞だwwwww★

追憶 ~ジュリアナ東京が1日限定復活~

イメージ 1

荒木師匠も!ジュリアナ東京が1日限定復活
 社会現象にもなったディスコ「ジュリアナ東京」が1日限定で復活することになった。ダンスミュージックブームをけん引してきたエイベックスの創立20周年企画の一環。「お立ち台」「ボディコン」なども再現される。ジュリアナが生んだスター、荒木師匠こと荒木久美子さん(38)は「私は当日、最強の戦闘服で戦場に赴く」と心待ちにしている。

 91年5月から94年8月まで東京・芝浦でディスコブームを支えたジュリアナ。閉場後、跡地はスポーツ用品店となっており、今回の復活イベントは東京・ディファ有明で行われる。開催日は9月6日。3000人を集客予定だ。

 ジュリアナの副支配人だった高野博文氏(42)を総合プロデューサーに迎え、当時を完全再現する。露出の激しいボディコン衣装が会場の入り口で貸し出され、お立ち台も復活。「ジュリ扇」と呼ばれた扇子も販売される。店員は全身黒ずくめの「黒服」で臨む。

 当日は荒木師匠をはじめ、「ジュリアナズ・トキオー」のアナウンスで知れわたったカリスマDJのジョン・ロビンソン氏(43)らも参加予定だ。

 荒木師匠は99年に医師と結婚したが、その後離婚。現在はディスコシーンで培った経験を生かし、クラブイベントの司会者などで活躍中だ。Xデーに向け、美容クリニックでダイエット指導を受けているといい「当時を知る人は、あの時代の自分になって思いっきり楽しんでほしい。若い人にも、クラブ遊びはもっとエキサイティングでさまざまな欲望を満たす場所であったことをリアルに体感してもらいたい」と呼びかけている。

 ジュリアナ以外にも人気ディスコが次々と1夜限定で復活する。東京・六本木のヴェルファーレ(昨年閉場)とマハラジャ(97年閉場)、東京・神楽坂のツインスター(03年閉館)。いずれもエイベックスが23日に発売した創立20周年記念盤「THE LEGEND OF INTERNATIONAL」に入場無料のチケットが封入される。

いや~バブルの終わりに突如登場した巨大ディスコでしたね。
 ジュリアナ東京 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
総合商社・日商岩井(当時)とイギリスのレジャー企業・ウェンブリーの共同出資により経営されていた大型ディスコ。正式名称は「JULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦」。総面積は1200m²、最大で2,000人を収容できる規模だった[1]。ワンレン・ボディコンの女性が集まり人気となったが、1994年8月31日に閉店した。
閉店の理由は客足の減少による経営不振。マスメディアの報道と、一大ブームにおける avex の 『JULIANA'S TOKYO』シリーズの CD 売り上げ増加に伴い、付録についている無料入場券でのディスコ初心者の入場者が多数を占めた。これまでとは違った客層が増えたことによって、純粋なダンスフリークやリスナー、上客であったモデルや常連などは足が遠のいた上、一見の初心者がリピートしないことにより、次第に収益が悪化していった。
ディスコは興味本位ではなく「ダンスが好きだ」、「曲が好きだ」、「知り合いと騒ぎたい」、「雰囲気が好きだ」、「目立ちたい」等、遊びなれた自分なりにポリシーを持った人間の集まる場所であったのに対し、単に「肌を露出した女性が多い」かのような報道により、下心を抱いた男性や、勘違いした地方出身の女性などが集まって雰囲気が壊れ、荒廃していった。

「ジュリ扇(せん)」
VIPルームの顧客にのみ配られた紫色のロゴ入り扇子を、女性客が持ったままお立ち台で踊ったのを真似たのが始まりとされるが、その後羽根つき扇子が導入されパワーアップして行った。「ロゴ入り扇子」や「羽根つき扇子(羽根扇やジュリ扇)とボディコンでハードコア・テクノやパラパラにのって同じ踊りを踊る」というスタイルは地方の新興ディスコにも波及し、「盆踊りが現代に復活した」とも言われた。

なお、ジュリアナ東京以前のディスコにおいては、熱気やスモークマシーンによる煙に耐えかねた者が飲食用の紙皿を団扇代わりにして扇いでいたのが、ダンスフロアにおいて扇子を振り回すようになったことの起源だという説があるが、1986年京都のマハラジャ祇園店で舞妓が扇子を振り回しお立ち台で踊っていたのが元祖の有力説である。

ジュリ扇、いろいろ謂れがあるんですね。知識が増えます。どうでもいい知識ですけど。
既にバブルは崩壊しつつあり、ジュリアナも経営が悪化、3年で閉店してしまいました。
バブル期は、マハラジャ、芝浦ゴールド、トゥーリアなんて有名でしたね。
トゥーリアは、レイトンハウスの赤城社長が経営するディスコで照明が落下して死者まで出ました。
当時ボディコンも過激になり、衣装のサイドシースルーでしまいにはフンドシ同然の衣装まで出てきましたね。名古屋辺りのマハラジャでは、お立ち台で衣装を脱ぎ捨てたり、放尿までする始末と聞きました。
金沢辺りのディスコはマハラジャ、サムライだったでしょうか。水着コンテスト等も行われていました。
金沢のディスココンテストで優勝しちゃったディスコクィーンで美人のミキちゃん、今は立派なお母さんになっているんでしょうね。でっぷりオバサンになってないことを祈ります~

あ~そうそう、ジュリアナといえばGW、グッドウィルの折口会長が社長をしていましたね。
紆余屈折を経て何度も起き上がり、這い上がった人ですね。ベルファーレも立ち上げましたね。
折口雅博 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1984年、防衛大学校理工学本科理工学専攻卒業後は幹部候補生への任官を辞退し、日本ユニバック(現・日本ユニシス)を経て、翌1985年には日商岩井(現・双日)に入社。大手倉庫会社のオーナーから有効利用の相談をされた東京・芝浦の倉庫を巨大ディスコとするプロジェクトを計画、綿密な計画の下、立ち挙げた「ジュリアナ東京」は一大ブームとなる大成功を収める。しかし、2年目には利権争いによりジュリアナの経営から離脱し、4,000万円の借金を抱え1992年に日商岩井を退社。

1994年、ジュリアナ立ち上げの経験を生かし、六本木にディスコ「ヴェルファーレ」をオープンし、再び成功を収め、借金の大半は返済する。しかし、社長から副社長へ降格人事され、1996年にはヴェルファーレを退社、グッドウィル・グループ(以下、GWG)の役員となった後は中心人物となり、2004年には経団連理事に就任しているほか、2005年には紺綬褒章を受章している。同年7月には出版した自著『「プロ経営者」の条件』(徳間書店)が10万部を越えるベストセラーとなる。

バブル絶頂時の1980年代後半は、東京等ではボディコンで出社、私服OKの大手商社等では、ボディコン着ながら仕事をしていました。
埼玉の大手会社に居た私は、帰りしな、更衣室から廊下に出ると我社の女性OLがボディコンで尻をフリフリ歩いていて、思わずスリップストリームに付いてましたね。
グラウンドで野球の練習をする者も思わず凝視し、監督から罵声一言。
「どこ見てんだ~~~ ちゃんとこっち見て練習しろ~~」

サイドがシースルーになってるボディコンが好きでした。いや~サイド露出しちゃって、下着はどうなってるか心配でしたでしょ? シールドって呼ばれる下着をちゃんとつけてるそうですよ。

レプリカ全盛でハンドル握り締めて峠のステージでイケイケの頃、巷でもOLねーちゃんがお立ち台でジュリ扇握り締めてイケイケでした。
レプリカバイク、ボディコンね~ちゃん、どちらも過激な時代でした。
再び時代が巡って来ることはあるのでしょうか・・・・・・

さぁあなたはディスコ全盛のバブル当時、どうしてましたか。どのボディコンが好みでしょうか~
ユーロビートを流し、奥さんに扇子を渡して、テーブルの上で躍らせて当時を思い出してみては如何でしょうか~~~
はは!
イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

▼折口会長、当時ジュリアナ社長
イメージ 10



ICARUS