扉を開けると目の前が白く煙り、スモーキーな香りが漂う。囲炉裏の前に腰を下ろし、出された白湯を一口。湯がこんなに美味いとは。


 この5月にふと思い立ち三陸沿岸を旅した。青森県八戸を振り出しに仙台まで至る約400キロの道のりである。

 きっかけは至って単純で、岩手県野田村の苫屋という曲り家をそのまま使った宿に泊まりたいからであった。


 東日本大震災からこのかた、私の属するロータリークラブでは多くの支援を行い、私個人もまた支援と称していくばくか喜捨を行なってきた。ところが気づけば既に震災から12年。特にここ2年はコロナその他に紛れ、震災を思い出すことすらない。せっかくである、三陸を訪ねるなら震災から11年間を振り返るために使おう。と心に決めた。


 ところが訪れた三陸地域は伝統が断絶し文化が消えた寒々とした風景として私の目には映った。復興工事を始めとして大きなお金が流れ込んでいるのだろうが、それが本当に地域のためになっているのだろうかと疑問に思わずにいられない。浦々の入江を仕切る巨大な堤防、昼間から満車のパチンコ屋、地元の憩いであろうカラオケスナック。津波被害で建て替えられた新しい家々にはどこにもその地域らしさはない。


 こんなもやもやした思いを抱きつつ野田村苫屋の戸を開けた私をの思いを啓いてくださったのは、苫屋の坂本夫妻だった。

 夕食の膳は五つ六つほどの小皿に季節の菜が並び、炊き立てのご飯にはミツバウツギの若芽が炊き込まれている。ミツバウツギはその辺りに普通に生えている低木だ。質素に見える夕食はこの上もなく贅沢で、魂が満たされていくことを感じたのだ。

 夫妻と共に食事を摂っていると膳半ばで夕闇が降り、明かりは囲炉裏の火だけとなった。その火を顔にうけつつご主人の充さんがボソッとつぶやいた。

「昔の人は遊び上手だったんですよ」

 聞けばそう以前のことではなく坂本夫妻がこの地へ流れ着いた三十年ほど前の頃は、皆で集まると笛や太鼓、三味線といった鳴り物が出てきて大いに愉しい宴になったそうだ。

「最近はカラオケがなければ何もできぬ。遊びもゲートボールのように誰かから与えてもらうものになってしまった」

そうやって一つ一つ伝承されるものが遊びに限らず消えていったのだという。


聞き入りつつふと愕然としたのは、三陸地域の姿といいながら実は日本全体がこの姿なのだと気づいたことだ。

「ほら手許がお留守になっているよ」

充さんの声で我に返った。炉端では常に灰をかき混ぜ、燃え残りの塊を崩してやらないと火が衰えると先ほど教わった。

一つ伝承が伝わった。