酷暑が兆し始めた頃、初めて高野山を訪れることとなった。この歳でうかつなことと恥入っていると、友人の僧侶が案内をしてくれるという。徒然草第五十二段にも「少しの事にも先達はあらまほしきことなり」とあるように、ありがたく同行を頼むこととした。

 名古屋駅で落ち合い近鉄特急で難波へ向かう。新幹線より速度が緩やかな分、家並みが近く刻々と上方へ近づく感じが関東人の自分には好もしい。流れる景色を見ながらしきりに今回の旅で素敵な出会いがあるような予感がよぎる。友人に告げると「宿坊で美人とお近づきになるのかも」などと僧侶らしからぬことをのたもう。


 ついた高野山は涼しく、別天地だった。宿坊は淸淨心院といい、名前のとおり清らかな雰囲気が流れる良い寺である。門脇の池でケロケロ声を上げているのは何かと聞けば天然記念物のモリアオガエルという。「これはただならぬ所へ来てしまった」との思いを新たにした。


一見無造作に見えるが、丁寧に手入れされている

 宿坊の朝は早い。しかし宿泊者にその早さを強いることはなく、朝のお勤めは七時半からだ。昨夜痛飲したにもかかわらずすっきりと五時前に目覚めたのも清浄心を養う場だからだろうか。勤行をおえ朝食を摂りながら縁側越しに池を見ていると、この坊の僧侶が何やら経を上げている。池畔の弁天社に対してという。注意して見ていると僧達は坊内にいくつもある神棚を廻り、それぞれに経を上げているのだ。よく考えてみれば民家はいざ知らず仏教の施設である宿坊に数多くの神棚が祀ってあることが不思議だ。まして神に経を上げるというのも他で見ない。清らかに上げる経文が心地よい反面、高野山は殊更に神仏混淆を進めている宗派なのだろうかとかすかな疑問が残った。