(本調子)
〽︎おりていく
花の盛りを先に見て
山でしゃれよか 舟にしょか
大海はこちゃ知らぬ
飛騨高山に小唄の会で訪れた。酒も出て会も酣となった頃、耳慣れない太棹の音が響いた。(小唄での三味線は中棹か細棹が用いられ、太棹は使わない)
上方唄で「おりていく」だという。
木組みが美しい
聴きながら、今の日本の状況が思い起こされた。高度経済成長という"花の盛り"を"先に見て"これから"降りていく"のだ。
成長局面に居合わせた世代や、終末まで成長し続けると考えるキリスト教的世界観を信じる人にとっては到底受け入れがたいかも知れない。
〽︎山でしゃれよか 舟にしょか
降りていくことを楽しもうではないか。貧しかった日本を知る世代は、降りる風景に恐れをなすかも知れない。しかし、歴史は決して繰り返さないし後戻りしない。
新幹線の車内誌ひとときに岡本彰夫さんという方が風格という題で以下のように書いている。
"人生の船に知識や経験や思いを積めるだけ積んで川を下っていく。しかし全てを持っては死ねないから、ある年齢に達した時は、これを捨てていかねばならない。(中略)しかしいくら捨てていっても真実は残る。残り香のように。その残り香が美しいのである(ひととき・令和元年11月号)"
のちの世代のために、伝統芸能は香りを残せるだろうか?
そんな想いに駆られていたら、唄はすっかり終わっていた。