絶対音感について書いたことから、改めて"絶対と相対"について考えてみたい。

 

 私たち日本人は伝統的にそもそも「絶対的」な認識をもっていないか、淡くしかもたない。その証拠に、「 絶対と相対 」などと言っている。絶対ですら相対との対語で考えているのだ。

 

 絶対とは 「 他に並ぶもののないこと、他との比較・対立を絶していること (広辞苑 第4版より)」 とある。相対と並べていいような甘いものではないのだ。ましてや、「 とっても 」ぐらいな意味で 「ぜったい、ありえな~い!」 などと言ってはならない。「絶対的にあり得ない状況」とはキリスト教言うところの終末を迎えた先、要は人間が滅んだ後にしか存在しないのだ。何しろ絶対とは比較を絶した存在なのだから。

 

 西洋はどういうわけか絶対が大好きだ。絶対神、絶対的、絶対主義、絶対君主、絶対音感…

 なんで頭の中で虚構の概念を作りたがるのだろう?私は路傍の石にさえ神が宿る八百万の神がいた方がいいし、”絶対的な真理"なんてきくと身震いがする。

 

 思うに、西洋文明が得意とする論理的、分析的な体質がそれを生み出すではないか。分析とは物事を細かく切り分け、事象を固定化し、断片を定義づけする。このことでの収穫は大きいし、現実に過去五百年は西洋文明がその手法で地球人類を牽引してきた。身近なところでは、飛行機・自動車・コンピューターといった機械類は論理と分析の結晶だ。

 しかし分析の持つ負の部分もある。限定的な状況で正常に作用する定義や公式であることを忘れ、大局を見失うことも少なくない。

 地球上では絶対的に正しい落下法則も全宇宙ではローカルだ。

 

 絶対とは英語の absolute の略だ。 soluteは溶液のこと。solutionは溶かすこと。だから問題解決のことをソリューションというのか。溶かすことに接頭語 ab をつけるとノーマルがアブノーマルになる。 溶けない absolute のできあがりだ。

 

 絶対的に生きろ、比較はするな!

 そんなに力まなくていいのではないかな。

 

 なにしろ私たちは存在自体が誰とも比べようがない「絶対」なのだから。