東京では今日七月十五日が盆の送りである。

 

夕やけが送り火の炎と同じ形になった。

 

 子供の頃は七月が盆だというと、周囲の子供たちから変な目で見られ困ったものだった。それはそうだろう、クラスのほとんどは両親が地方から出てきておりお盆といえば八月だからだ。

 

寺はすっかり暮色に包まれていた

 

 子供の頃祖母から良く聞かされたのは、迎えは朝だが送りは日が落ちてからなので提灯を持って寺へ行ったのだと。その盆提灯は精霊棚の脇に置くのとは違い、怪談の牡丹灯籠のような形状だったという。

 

 「提灯(灯籠)は墓に置いて帰らないといけないので、帰りが暗くて怖くてねぇ」

 

 祖母が子供の頃というと大正初年。東京といっても大森區といわれたこのあたりは田畑ばかりで、数えるほどしか民家のない時代だ。もちろん街灯などあるわけもない。祖母によると畑に出ているとよく狐が出たという。夜は、「コーンコーン」と狐の鳴き声がし、寝るのが遅い子は狐に引かれるぞと言われたそうだ。

 

 寺から戻ると精霊棚の片付けだ。盆提灯をたたみ、曼荼羅を巻く。かつてはありったけの曼荼羅を部屋一杯にかけたため片付けが大変だったが、最近ではセレクトしているため七、八枚といったところか。

 今回は一つ発見があった。ひどく古いとだけ我が家で伝えられている曼荼羅がある。

 

紙がすっかり茶色に変色している

 

 神職をしている弟に年号を読んでもらったところ、貞享三年(1686)丙寅(ひのえとら)九月と判明した。時代は徳川将軍綱吉の治世、翌年の貞享三年には有名な「生類憐れみの令」が出されている。

 

 星霜に耐え、よくぞここまで残ってくれたものだと感嘆した。

 迎え火・送り火、精霊棚、水の子(蓮の葉に茄子を賽の目に切って盛り、ミソハギの束で水をかける)、お曼荼羅、ナスの牛ときうりの馬…今は当たり前にやっていることも綿々と先祖が続けてくれたからこそ残っている。

 

 私もバトンを担う一人だ、改めてそう感じたのだった。