近所の庚申塔を囲うお堂ができあがり、落成式がおこなわれた。

 落成式とは言っても関係者数人が連なるだけの小さなものだ。

 

 

この塔はお寺さんの管轄らしい。

 
 この塔は最近まで覆堂が風雨で朽ちて無残だったものを、地元で資金を出し合って新たなものにした。子供の頃から親しんでいた塔だが、これを機に少し調べてみた。
 この庚申塔の建立は享保二十年(1735年)、暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗の治世だ。ちなみに庚申塔とは庚申信仰にもとづいて行われた庚申講が建てた石塔のことである。
 ここ久が原には他に三基の庚申塔があり、三基はいずれも古道の交差する場所に村の入口を守るようにたてられている。その存在を証明するかのように、古地図を見ると塔で囲まれた中にしか人家がない。ところが四基の中でこの塔だけが、明治までは道もなかったわけのわからない場所にある。地図で照合するとこの塔がずれれば四基がきれいな四角を描くのだ。
 常々疑問に思っていたところ、管理している方によると、この塔は別のところにたてられたが大水で流され、今の場所が掘り出された所だという。
 確かに私の子供の頃までは小さな流れがあり、塔はその際に建てられていた。
 
 享保二十年、どんな時代だったのだろう?タイムスリップして行ってみたいと心から思う。
 
「みんな着物着ていたんだろうなぁ、いいなぁ、行ってみたいなぁ」
 
とつぶやいていたところ、妻が
 
「舗装されていないから、汚いよ」
 
などと冷たくうそぶく。まったく女性は現実家である。
 
 お堂を再建したことで、塔の存在が伝わった。学校の下にあるきれいになった庚申塔は、きっと子供達の興味もひくに違いない。「伝わる」ためには「伝える」力も必要なのだと改めて思う。
 伝統邦楽も「伝わる」価値がある、そう思いたい。