初めて訪れた高野山は山中の奇跡に思えた。この先に民家があるのかと疑わしくなるような山間を特急電車がゴリゴリと登っていく。着いた先は高尾山に登るようなケーブルカーの駅である。



 ケーブルをバスに乗りかえ、林間を抜けるといきなり街が出現した。寺々は無論のこと、民家が並び銀行や郵便局、コンビニもある。職人らしい仕事場の表では子供が遊び、喫茶店で中年男性が新聞を広げている。

 宿坊を出て奥之院へと向かう道はびっしりと大小の墓が群れをなしていた。もはや石のビル群であり、浄土の都市とでも言おうか。愉快なのは新旧、敵味方、身分の上下なく墓が混在しており、江戸期の大名の脇が企業の墓だったりすることだ。能楽のトップ観世家と歌舞伎トップ市川宗家が並んでいるのも微笑ましい。



 最奥には弘法大師のおわす奥之院燈籠堂があり、そこには今まも地下に大師がいらっしゃるという。現に高野山では今でも毎日食事を大師へ捧げている。

これは私達の食事

 翌日金剛峯寺を見ながら思わずハッとした。寺の奥に高野山の土地神三柱が鄭重に祀られているのを見て、宿坊での神々へ上げる経の風景を思い出したのだ。寺でいわば上座である最奥に神を祀るのいうのは他所で見たことがない。よく神仏混淆・神仏習合といわれる。混淆といい習合といい、いずれも混ぜ合わせること。混ぜ合わせてはどちらかが消えるであろう、ましてここは一大仏教霊場だ。どちらが強いかいうまでもない。大切に土地の神を上座へ据えるというのはどのようなことなのだろうか?


 疑問を抱きつつ初夏の最後を飾る境内を巡り、宗務院で講和を聴聞した。

「弘法大師という呼び名は諡号(おくり名)といい、空海の死後に贈られました。ところでこの名がどういう意味かわかりますか?」

こう尋ねられてはたと詰まった。

「弘はひろめること、弘法とは仏の法(のり)を広めた方ということです」

講師はいう。ここまで聞いて全てがハラリと落ちたような気がした。

 弘教大師でも弘道大師でもないのだ。法とはこの世の理(ことわり)を解く体系のこと。宗教の形をとっているが、いわば当時の自然科学である。在来の神々と宗教として対立するのではなく、神々の治める土地土地やそこにいる人々、暮らしを広く覆う理(ことわり)として法を整えたのであろう。その具現が宗教都市高野山の姿なのだ。

 そして私はその具現の証拠を目の当たりにする事となった。


遙かに続く法の道