トトちゃん、また逢う日まで | イブうさぎ

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うちのうさぎ(箱うさぎ経由で引き取った業者が放出したうさぎ)の紹介と、2022年12月に都内で発覚した多頭飼育崩壊のうさぎを保護して里親募集する活動の紹介。

日曜の譲渡会で留守している間、トトちゃんは母が看ていてくれました。
さらに口にできるものが少なくなり、シリンジで液状の栄養食をわずかに摂り、
大好物のブロッコリ葉、ドライフルーツ、クッキーを少し口にするのみ。



月曜日はとうとう水分も飲み込まなくなりました。
そして、3/13火曜日の明け方に命の灯が消えました。




トトちゃんは2003年1月に我が家に2匹目のうさぎとしてやってきました。




初代ぴょんちゃんは、1999年2月にうさぎ専門店から迎えた
チンチラ色のホーランドロップ♂です。


ぴょんちゃんは、2才で切歯(前歯)の反対咬合で噛みあわせが悪く、
定期的な歯切りが欠かせませんでした。


しばらくして下顎に膿瘍が溜まっており、臼歯の不整咬合が発覚。

うさぎを詳しく治療できる動物病院で約3週間に1回、
全身麻酔による臼歯トリミングが必要になり、
下顎膿瘍に膿排出用のドレーンを常時つけて膿瘍の治療をしながら、
1年半、週1以上の通院を続けました。


その頃、両親がうさぎが飼いたいと言っていたので、
動物病院の先生に「里親募集のうさぎがいませんか?」
と訊いたところ、紹介されたのが
「夫がアレルギーを発症したため、3匹のうさぎを里親募集する」という奥さんでした。

早速連絡をとったところ、「トトちゃんを里親募集でもらい、その後、
立て続けに2匹のうさぎをもらって3匹飼育していたら、
一家の大黒柱であるお父さんがアレルギーになり、仕事もままならないため、
至急うさぎを手放したい」
とのことでした。


トトちゃんは小学生の息子がうさぎ用ビスケット「甘えん棒」を与えていたため、
丸大ハムのようにウエストがないドンヨリとしたうさぎでした。

また、小さなアメファジのメスにマウンティングされ、自己主張が弱いため、
一日中ケージから出してもらえない日も多く、足のサイズが極端に小さかったです。


里親募集でもらった元の飼い主もアレルギー発症で手放したそうで、
生まれたブリーダーまたは繁殖場から数えると、我が家が4箇所目になるのが
気の毒で、名前をトトちゃんのまま、我が家にきてもらうことになりました。


トトちゃんが両親の家に来た翌日、ピョンちゃんがいつもの全身麻酔で手術がある日でした。
ところがピョンちゃんの心臓が弱っていて麻酔中に亡くなりました。


動物病院から連絡があり、ピョンちゃんを取りに行って、電車の中で号泣しながら、
翌日のペット霊園でのお葬式も号泣し、帰ってきてからもずっと泣いて…。


トトちゃんは両親の家で孫のように可愛がられました。
父はトトちゃんがソファに飛び乗ることもできないので、
前足をソファにあげてジャンプを教えていました。


トトちゃんはソファの上でタオルを掘り掘りして、前足でスーッと延ばす、
という遊びを覚えて、段々とウエストが出来てきました。


わたしは一人暮らしの部屋で毎日ピョンちゃんの骨壷をみながら泣いていました。
両親の家でトトちゃんと遊んでもピョンちゃんを失った悲しみから逃れられず、
ペットロスにおちいっていました。



半年ほどすると、今度は父が体調をくずし、末期の食道ガンであることが発覚し、
抗がん剤治療が始まります。父の病室にはトトちゃんやらピョンちゃんやら
ウサギの写真を貼りまくり、少しでも気がまぎれるようにしました。
看護師さんたちにPCに入ったトトちゃんの写真を見せて自慢していました。


年末年始、点滴をぶらさげながら自宅に戻ってきたとき、
トトちゃんを片時も離すことなく毛布に入れて一緒に寝ていました。


年が明けて病院に戻り、しばらくして父は旅立ちました。
そのときお世話になっていた理学療法士の女性が父のウサギ自慢に影響されて
ウサギを飼い始めた、と言ってくれました。


父の闘病・逝去は家族にとって胸がつぶれるようなつらい体験でした。
ふわふわしたトトちゃんを抱きしめて頬を寄せて泣いて、
それでやっとそこにいることができる、といった日々でした。


トトちゃんはピョンちゃんと違い、病院知らずで胃腸うっ滞にもなったことがありませんでした。



毎日ケージから出ると、お気に入りのテーブルの下に移動して、ずっとそこで過ごします。自己主張せず、のんびりとマイペースで長生きしてくれそうでした。





うちに来て6年、2009年2月にいつものようにボディチェックをしていると、
喉元、お腹にコリコリとした塊がつまめます。
動物病院で相談したところ、乳腺腫瘍の可能性があり、子宮・卵巣も取る手術が必要になるが、手術は高齢だけにリスクを伴う、と話がありました。

ピョンちゃんを麻酔中に亡くしたことから手術に踏み切る決心がつかず、
判断停止状態で1年以上経過しました。



ウサギ雑誌を読んでいてそこに載っていた動物病院に行ってみようとふと思い、
相談すると、「高齢でも本兎の健康状態がよければ手術できる」とおっしゃるので、
2010年6月、トトちゃんの乳腺のしこりと子宮・卵巣を切除する大手術に踏み切りました。


 

トトちゃんは1週間ほどつらそうでしたが、無事に乗り越え、ゆったりとした老後の生活を送っていました。


その頃には、トトちゃんのほかにもウサギを飼おうと思い立ち、箱うさぎとシッポぷうママに連絡を取って里親になることを決めたミニロップのアンリ(元開帳肢)と白うさぎのマイケル(小学校飼育小屋出身)が我が家に来ていました。
ミニロップのアンリとトトちゃん


マイケル@ベランダ散歩中
 

9月には動物愛護法改正の犬猫以外の小動物販売時説明義務の緩和に反対するWeb署名活動を開始し、2011年2月末に杉並うさぎの事件にかかわり、あわただしく日々が過ぎます。

 

5月13日、マイケルくんが強制給餌を受け付けなくなって亡くなります。


トトちゃんは、お気に入りのテーブルの下で前足のバランスを崩して横倒しになることがありました。

2011年6月、両目に白い部分が増えてきて、白内障が進行し、視力を失いました。視力がなくても両耳を前に倒して耳を触角のように使ってケージの周辺を歩いていました。


毎日ケージを出ると、ケージ沿いに窓のほうに移動してそこで一日すごしました。



2011年11月末、トトちゃんがケージを出たすぐの角の近くでジッとしているのに気付きました。顔を見ると、黒目がスーッと流れて揺れています。眼振です。


斜頚・眼振はエンセファリトゾーン、パスツレラなどの原因があり、すぐに投薬する必要があると知っていたものの、ほぼ明け方だったため、かかり付けの病院に朝一で行くほうが良いと思い、朝9時になるまで待ちました。


通院が始まり、当初は食欲もあり、眼振がおさまる日が来るかと思っていましたが、食欲がなくなり、筋力が衰え、老衰の最期のように死んでいきました。


トトちゃんだけを大事にして、その老境の生活を精一杯守れば、もう少し長生きしてくれたかもしれない。
マイケルくんの最期を看取ったときも、自分の力量を超えて里親活動したことを反省したのに、また悔いが残ることになってしまった。



トトちゃんにはありがとうという言葉しかありません。

今いるアンリちゃんとクロちゃんを大事にして、

一時預かり中のクロちゃんの子2姉妹に素敵な新家庭をさがして、

トトちゃんに許してもらおうと思います。


早くピョンちゃん、マイケルくん、トトちゃんに会いたい。

それまで精一杯に人生を生きなければいけない。


見送ったウサギ達にそう言われているような気がします。