うるう年の逆打ち遍路はご利益が3倍あるといわれる四国八十八ヶ所を、夫婦で車中泊しながら3/26~4/15の21日間かけて巡礼し、ついでに日本100名城、続日本100名城、道の駅、温泉に寄りました。

 

1日目(3/26)は、岡山県の自宅から瀬戸大橋経由で四国へ渡り、香川県の道の駅「ながお」で車中泊

2日目は、88番→84番札所(5ヶ所)参拝後、道の駅「源平の里むれ」で車中泊

3日目は、日本100名城・高松城、83番→80番札所(4ヶ所)参拝後、道の駅「滝宮」で車中泊

4日目は、日本100名城・丸亀城、79番→76番札所(4ヶ所)参拝後、道の駅「滝宮」で連泊

 

4日目(3/29)は、前夜車中泊した香川県綾歌郡の道の駅「滝宮」を出発して、79番札所「天皇寺」、78番札所「郷照寺」の次に、日本100名城「丸亀城」へ行きました。

 

 

10:30 丸亀駅前にある日本100名城「丸亀城」に到着しました。

78番札所「郷照寺」から15分でした。

丸亀城は、平成30年(2018)の西日本豪雨の影響で、南東部の石垣が崩落し、現在も復旧工事中です。

 

 

「大手二の門」から入城します。

南方にあった大手門(一の門・二の門)を京極氏入城直後の寛文10年(1670)に北方のこの地へ移築しました。

切り妻造りの高麗門で、左右に狭間塀を持つ構造です。

 

 

丸亀城の案内図です。

説明板によると、

丸亀城は、生駒氏が慶長2年(1597)から5年をかけて西讃岐の支配のため築城したが、一国一城令により廃城となった。

その後、生駒氏の転封により讃岐は東西に二分され、西讃の拠点として山崎氏がその城跡に、寛永20年(1643)より築城を開始した。現在のほとんどの石垣は、山崎氏によって造られたと考えられる。

山崎氏断家後は京極氏が入封し、明治維新を迎える。

 

 

「大手一の門」です。

櫓門で、楼上で時報の太鼓を打っていたので、太鼓門ともいわれています。

 

 

右手に三の丸の高石垣が見えてきました。

説明板によると、

丸亀城跡は、標高約66メートルの亀山に築かれた平山城で、三の丸には高石垣が巡っている。

丸亀城の高石垣は、仰(矩)返しという技法を用い、石垣下部は緩く、上にいくほど急な勾配となり「扇の勾配」と呼ばれる美しい勾配で築かれている。

 

 

別の角度から撮影しました。

北側の高石垣は高さ20メートル以上あり、隅角部の石垣は算木積みと呼ばれる積み方で、直方体の大きな石を角石に用い、大面と小面を交互に組み合わせ、小面の角石の横には角脇石を配することで、高く強固な石垣となっています。

 

 

二の丸井戸です。

絵図によると、直径1.8メートル、深さ65メートルと記され、日本一深い井戸と言われています。

丸亀城で最も高いところにあり、現在も水をたたえています。

 

 

本丸です。

天守は、全国で最小ながら現存する木造天守12城(現存12天守)のひとつです。

天守へ上る人で行列ができていました。

過去2回訪問しているので今回は天守の見学はあきらめて、100名城スタンプだけ押しました。

 

現存12天守・・・弘前城(青森県)、松本城(長野県)、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城(滋賀県)、姫路城(兵庫県)、松江城(島根県)、備中松山城(岡山県)、丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、高知城(高知県)

弘前城だけ攻略できていません。

 

 

本丸から眺めた丸亀駅方面の景色と瀬戸内海です。

右の方に瀬戸大橋がかすかに見えます。

 

 

大雨で崩落した南東部の石垣を修復作業中です。

 

 

崩落した石を元あった位置に積みなおすため、整理して並べています。

破損してしまった石は、新たに花崗岩を加工して使います。

 

 

この日は3月29日でしたが、桜はまだ2分咲きでした。

花見を兼ねての四国逆打ち遍路でしたが、四国の北部は満開には早かったようです。

 

 

三の丸の北側から眺めた天守です。

北側の石垣は無事だったので、JRや国道からは美しい石垣の丸亀城を眺めることができます。

ちょうど植木の管理をしている職人に会ったので、石垣の崩落のことを聞いたら、樹木の植えすぎだ。10メートルは離さないとダメだ、と言われていました。

 

 

崩落現場へ行ってみましたが、立ち入り禁止のため近づけませんでした。

 

 

1時間半ほど見学して、大手二の門を出て無料駐車場へ向かいました。

 

 

日本100名城のスタンプです。

丸亀城は78番でした。

 

このあと、77番札所「道隆寺」へ行きました。

 

     ーーー つづく ーーー