2023/11/4~11/27の24日間、一人で車中泊しながら長崎・五島列島の史跡名勝・温泉・道の駅を巡ってきました。
岡山県の自宅を出発し、3~5日目は長崎市街観光、6~10日目は五島列島・上五島を観光
11~16日目は下五島・福江島を観光、17~18日目は長崎市観光
19日目は、雲仙市の雲仙地獄&雲仙温泉、南島原市の道の駅ひまわりで車中泊
20日目は、日本100名城・島原城、続日本100名城・原城跡、天草にわたって道の駅で車中泊
20日目(11/23)は、前夜車中泊した南島原市の道の駅「ひまわり」を出発して、日本100名城「島原城」へやってきました。
寛永14年(1637)の「島原の乱」で一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政4年(1792)の「島原大変」時には打ち続く地震と足下を襲う大津波にも耐えた堅固な城です。
復元天守閣の前で記念撮影です。
江戸時代初期の元和4年(1618)に松倉重政が着工、7年の歳月をかけて完成した城ですが、明治維新で廃城になり、払下げ・解体されましたが、昭和39年(1964)天守閣が復元されました。
島原城の説明板です。
この地に有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。
その後、奈良県五条から入封した松倉重政が島原城を築城しました。
破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸です。
以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と四氏十九代の居城として輝きました。
入館料700円払って中へ入りました。
1階はキリシタン展として、「島原の乱」にまつわる有数の資料を数多く展示してあります。
島原の乱・・・苛酷な松倉勝家の政治に領民の怒りが爆発し、領民が島原城を攻撃し、江戸幕府は老中松平信綱(「知恵伊豆」とよばれた)が総大将となり九州の諸大名約12万を動員して原城を兵糧攻めにし、天草四郎はじめとする反乱軍は皆殺しにされ、死者は3万7千に及んだ。この乱後、鎖国が決定的となった。
島原だけでなく天草も舞台になった百姓一揆というとらえ方になってきたため、現在は「島原・天草一揆」と表記されている。
天草四郎率いる反乱軍の拠点「原城」の模型です。地元の中学生が製作しました。
岡山県宮本村生まれの、我が郷土の偉人・宮本武蔵も養子・伊織が小倉藩の家老だったため一緒に幕府側として出陣しています。すでに50代だった武蔵は、一揆側の投石が脛に当り立てなくなり、やむなく戦線離脱しました。
「原城」は続日本100名城に選定されているため、このあと訪問しました。
天守閣5階から眺める景色です。
東方向には、400年前の大手門をモチーフにした島原駅、その先には島原湾と、はるか彼方に熊本城(見えません)があります。
西方向には、眉山(まゆやま)と、その奥に平成新山(へいせいしんざん)と普賢岳(ふげんだけ)が見えます。
江戸時代の寛政4年(1792)の「島原大変」時には、普賢岳噴火の影響で眉山が馬蹄形(ばていけい)に崩壊し、大量の土砂が海に流れ、幾度も津波が発生しました。
それから約200年後の平成3年(1991)に普賢岳が再び噴火し、火砕流や土石流が甚大な被害をもたらしました。
まさに歴史は繰り返すです。
島原城見学後、武家屋敷へ移動しました。
武家屋敷へ行く途中にあった「時鐘楼(じしょうろう)」です。
島原藩主・松平忠房が「民に時刻を知らしめ、これを励行せしむることは政治の要道である」として江戸時代の延宝3年(1675)この地に鐘楼を建てました。
以来270年間親しまれた鐘の音も、太平洋戦争で供出されましたが、昭和55年復元されました。
武家屋敷通りです。
案内図です。
現在保存されている武家屋敷は、山本邸・篠塚邸・島田邸の3軒が無料開放されています。
山本邸です。
篠塚邸です。
島田邸です。
石垣の上に小石が積まれています。これと同じようなのを五島列島・福江島の武家屋敷通りで見たので、近くを通りかかった地元の人に「なぜ積んでいるのか?」聞いたら「よく分からない」との返事でした。
深く追求せずにその場を離れました。
11月16日に、五島列島・福江島の武家屋敷通りで見た小石を積んだ石垣です。
端っこに蒲鉾状の石を置いて落ちないようにしています。
説明板によると、
石垣の上に「こぼれ石」と称する丸い小石を積み重ね、その両端を半月形の蒲鉾型の石で止めてあり、全国的にも類を見ないと評価されている。
一説には、外部の侵入を音で知らせたり、いざという時には武器にもなるのでこういう石垣になったといわれている。
とのことで、五島列島の「こぼれ石」と島原の石垣の石とは目的が違うようです。
日本100名城のスタンプです。
島原城は91番でした。
このあと、続日本100名城・原城跡へ行きました。
ーーー つづく ーーー